第106回全国高校野球選手権大会、いわゆる「夏の甲子園」大会が開幕しましたね。今年2024年は、阪神甲子園球場開場100周年という記念すべき一年です。パリオリンピック開催中ではありますが、通常のスポーツ番組は本日はお休みし、特別番組をお送りします。
この夏、台湾では東京在住の台湾人ジャーナリスト、鄭仲嵐(てい ちゅうらん)さんによる、ある野球選手の伝記が出版され話題となっています。題名は『追尋 岡村俊昭』、日本語に訳しますと「岡村俊昭を探して」となります。岡村俊昭については、南海ホークスのオールドファン、もしくは野球史マニアの方はご存知かもしれませんね。
岡村俊昭は日本統治時代の1912年、台湾東部、現在の花蓮県で生まれました。葉天送という名前ももつ台湾人です。1929年、同郷花蓮の先輩を追う形で、京都の平安中学に進学。在学中は、最多出場記録タイである9度の甲子園出場を果たし、同じ京都の京都商業、あの沢村栄治とはライバル関係でした。日本大学を経て、1939年に南海に入団。戦前、戦中、戦後と1949年まで10年間プレーし、1944年には首位打者を獲得しました。現役引退後、1950年からは指導者となり、「山本一人」のちの「鶴岡一人」監督を支え、のちの中心選手を数多く育てました。鶴岡監督が「親分」と呼ばれた中、岡村コーチは「大将」と呼ばれていたそうです。コーチ辞任後はスカウトをつとめ、1996年に京都市で亡くなりました。
現役時代、コーチ時代の名鑑には「京都市」ないし「京都府」出身と書かれていた岡村俊昭。チーム関係者は皆、台湾出身と知っていたそうですが、本人は家族にも自身の過去について多くは語りませんでした。近年、野球ファンには岡村が台湾出身であることは知られていましたが、日本にやってくるきっかけ、本人のルーツなどについては、台湾原住民のアミ族の血筋を引くということなどしか、わかっていませんでした。
こうした中、縁があって出版社から、岡村俊昭について調べてほしいと頼まれた鄭さん。ジャーナリストとして多忙な日々の合間をぬって台湾と日本を行き来し、ご家族を含め、様々な人達と会って聞き取りをし、半生を丁寧にたどっていきました。決して順調だったわけではありませんが、熱い情熱をもって調べ続けた鄭さんはついに、真相にたどり着いたのでした。新型コロナウイルスの影響も受け、8年の月日をかけた大作は、台湾、日本の野球史研究としての成果はもちろん、岡村の人生を通じ、台湾と日本の交流、さらには歴史に翻弄された台湾人、台湾の歴史も浮き彫りにしています。
7月中旬には、台北市と台中市で出版記念の座談会も行われました。本日は、このうち台中市で行われた座談会から、作者の鄭仲嵐(てい ちゅうらん)さん、そして、鄭さんの取材、執筆にあたって様々なアドバイスをするなどサポートした社会学者で、南海ホークス関連の著作もある関西大学社会学部の永井良和教授、台湾野球史研究の第一人者として知られる台南市文化局の謝仕淵局長、そして、台湾プロ野球、中信兄弟の現役プレーヤーでありながら、台湾野球史の研究の為に修士課程に進学した周思斉選手の声を交え、この『追尋 岡村俊昭(岡村俊昭を探して)』をご紹介します。
Rti 台湾国際放送
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