日本では、2011年に山本作兵衛が描いた、炭坑で働く人々の絵が、日本で初めてのユネスコの世界記憶遺産となりましたが、台湾にも“炭坑画家”と呼ばれた画家がいました。
その人の名前は、洪瑞麟─。
洪瑞麟の作品は、台湾美術史において、労働者の生活を描写する代表的シンボルとなっています。
彼が亡くなった後、息子の洪鈞雄さんがアメリカに移民する際に、父・洪瑞麟自らが厳選した家宝の作品群に、各シリーズの代表作を加え、2020年に台北市立美術館に寄贈しました。
その寄贈された作品を中心に、さらに館外の素晴らしい作品も組み合わせ、350点以上の素晴らしい原画や文献などを展示した展示会が、今、台北市立美術館で行われています。
今週は、その“炭坑画家” 洪瑞麟をご紹介しましょう。
洪瑞麟は1912年、台北の大稻埕で生まれました。小さい頃から、梅の花を書くのが得意であった父親から影響を受けて育ちました。
また、日本の稲垣藤兵衛が設立した稲江義塾で基礎教育を受け、早くから人道主義に触れ、農民や貧しい人々を大切にする西洋画家のミレーやゴッホに興味を持ち始めました。
そして僅か12歳にして「ミケランジェロのスケッチ」を模写するなど、早くから絵の才能を表していました。
1932年に日本の帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の西洋画科に入学。
そこで違った芸術の洗礼を受けるのと同時に、公式な展覧会以外の新興美術運動や、独立した芸術団体の活動精神に影響を受け、その土地の風習や習慣、労働階級に注目してきました。
そして、1930年代の台北駅裏や日本の貧しい街の風景画を発表しています。
また、洪瑞麟の作品の中に有名な“山形シリーズ”というのがありますが、このシリーズでは、「寒空の下の労働者」に感動し、雪国の冬、凍えるような気候の中、山形の農民たちが必死に生活する情景を描いています。
これは、日本に留学していた際に仲の良かった友人が山形に住んでいて、卒業後、彼の実家を訪ねた時に見た情景を描いたものだそうです。
台湾に戻った後は、家計を支えるため、また日本留学の際に費用を援助してくれた画家・倪蔣懷氏に感謝するため、台湾北東部の瑞芳の炭坑で30年以上に渡って働きました。
毎日、空が明るみ始めるころには、炭坑の地下深くに入っていき、危険と引き換えに生活を繋いでいる鉱夫たち。外は日が高く昇っても、坑道の中は暗いまま。唯一の光はヘルメットに付けたライトだけ。一日の仕事が終わって、坑道の出口に向かって歩き、ようやく本当の光を見ることができます。
そんな鉱山労働者の生活を日記として記録し、数々の作品を製作。力強いタッチで、仲間たちの肉体労働の美しさをスケッチし、「陽の光の届かない場所」での生命の尊厳を表し、独自の作風を確立しました。
洪瑞麟の炭坑での危険で大変な体験は、台湾の1940年から1970年代の鉱業の黄金期を貴重な記録として残すこととなりました。
洪瑞麟はかつて、「これらは全て最も簡潔なタッチで描くことを余儀なくされた。彼らの曲がった背中、長時間の労働によって変形した関節、労働による身体全体の誇張したラインを事実のスケッチとして書き留めた」と語っています。
また、炭坑の記録の他に、台湾原住民族も洪瑞麟の作品の中で独特な被写体となっていて、1930年から1970年にかけて、台湾南部・屏東のパイワン族や、東の離島・蘭嶼のタイヤル族芸術、東海岸の原住民族の集落を訪ねスケッチをしました。
そして同時に、1964年、國立藝術專科學校、現在の國立臺灣藝術大學から招きを受け、デッサンや水彩画、油絵を教えていた他、東洋の水墨と毛筆に西洋のパステルを組み合わせた裸婦を描いています。
洪瑞麟は、「裸婦を描く気持ちは、鉱夫の時とは違う。鉱夫の方は非常に激しく、対して裸婦は穏やかで静かな実体であり、大きなコントラストをなしている」と語っています。
“炭坑”という、陽の光が届かない地底に長年いたことから、特に燦燦と降り注ぐ太陽の光に特別憧れた洪瑞麟─。
晩年は、息子・洪鈞雄さんとともに、アメリカ・カリフォルニア州の海辺の小さな町に居を構え、太陽と共に余生を過ごしています。地底の闇の世界を離れた後の天の光と雲の影は、彼の芸術家人生終盤の創作のテーマとなりました。
そして、1996年心筋梗塞のため、84歳の時、アメリカでこの世を去りました。
亡くなった翌年には、台湾の国立歴史博物館で没後記念展示会が開催されました。炭坑や鉱夫の記録をはじめ、様々な記録を絵に残してきた洪瑞麟。今年(2022年)は彼の生誕110年にあたり、現在、台北市立美術館では、寄贈された作品を中心に、350点以上が展示された展示会が行われています。展示会は7月31日にまで開催されています。
Rti 台湾国際放送
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