台湾の伝統的な民間芸能の一つ「布袋戲(ポテヒ)」。別名「掌中戲」とも呼ばれ、手で動かす人形劇のことです。
「布袋戲(ポテヒ)」は、小さな廟のような舞台を設置し、人形は、木製の頭部と手足、そして布製の身体となっていて、手袋飢状になった体の部分に手を入れて操ります。
“布で作られた袋状の人形”ということから「布袋戲」という名前となったと言われています。
古くから伝わる伝統芸能で、今でも神様の祭りの際などに街中でステージが登場して上演されていたりもします。
そんな伝統的な民間芸能「布袋戲」の伝承に生涯に渡り尽力してきた「新興閣掌中劇團」の5代目継承者、鍾任壁さんが9月5日、亡くなられました。90歳でした。
1932年、台湾中南部・雲林に生まれた鍾任壁さん。
幼いころより祖父から漢文を習い、父から「布袋戲」の技術を習い、14歳で助演として出演できるようになりました。そして父親や叔父らと共に台湾各地で演出の手伝いをしていました。
当時、台湾は日本の統治から中華民国に変わり、各地で民族芸能の需要が高まっていたこともあり、鍾任壁さんにとって最高の学習のタイミングで、さらには当時、年の近い有名な「布袋戲」の演者がいたことから、共に切磋琢磨し成長をしてきました。
鍾任壁さんは、素晴らしい演技と、明瞭なセリフ遣いから、17歳で「西螺の幼き獅子」と呼ばれ、「布袋戲」界の先輩たちからも高く評価されました。
そして1948年に、父より正式に「新興閣掌中劇團」の団長を受けつぎ、引っ張っていくようになり、「閣」派の5代目として、1965年、1968年に、政府主催の演劇コンテストで優勝しています。
鍾任壁さんの演技スタイルは自由で生き生きとした、演目、演技、音楽、どれも革新的なスタイルなのが特徴です。
1950年代から1970年代にかけて、「布袋戲」は廟の入り口から劇場へと入っていて、全盛期には大小合わせて500~600の劇場がありました。
しかし、伝統的な小規模なものではもはや観客を満足させることができなくなり、1000人以上の大きな劇場で鑑賞する観客に繊細かつ印象的な視覚効果を見せるために、舞台や人形、脚本、照明効果など大胆なアプローチを試み、伝統的な要素にオリジナルなものを融合させただけでなく、剣士や武士の繊細な効果を継承し、台湾の「布袋戲」の変革に重要な影響を与えてきました。
1982年からは韓国、アメリカ、ヨーロッパなど、海外でも頻繁に公演を行うようになりました。日本にも公演で数回訪れていて、東京だけでなく、名古屋、京都、大阪など12大都市公演も行っています。
また、公演だけでなく、鍾任壁さんは、「布袋戲」の指導にも熱心で、多くの外国人が鍾任壁さんから指導を受けています。
1984年には日本人の学生・島袋純子さんが鍾任壁さんの元にやってきて師事し、その後、沖縄に「琉球新興閣」を立ち上げたりもしました。
その「琉球新興閣-かじまやぁ」はその後も日本で人形劇団の活動を続け、2017年には日本青少年文化センターから表彰をされています。
もちろん、鍾任壁さんは台湾内でも「布袋戲」の継承や指導に尽力をしていて、1988年からは、国立台湾大学や国立政治大学、淡江大学といった大学の他、高校や小学校など20校以上の学校において教鞭をとったほか、様々な場所で指導や伝承を行ってきました。
また、芸術はプライスレス、アーティストは国の宝であるとして、2006年からは、国立雲林科技大学に招かれ、「文化資産保護科」の「布袋戲」課程の講義を担当するなど、台湾の民間芸能「布袋戲」の伝承に尽力してきた人物です。
実は鍾任壁さんの出身地である雲林県ではそんな鍾任壁さんのドキュメンタリー映像を昨年(2020年)から撮影していて、来月10月1日から開催される「雲林國際偶戲節(雲林国際人形劇フェスティバル)—偶戲國際影展(人形劇国際映画祭)」のオープニング映像として放映される予定で間もなく完成するところだったのですが、完成を前に亡くなられました。
これには製作に携わっているスタッフも深い悲しみに包まれています。
雲林文化観光処によると、鍾任壁さんは、公演に出席する際にはいつも必ずスーツを着て登場し、「布袋戲界の紳士」と呼ばれていたそうです。
人生を「布袋戲」に捧げ、台湾内で2万回以上の公演を行い、さらにはアジア、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなど60の国々で600以上の公演を行うなど、台湾の伝統的な芸能「布袋戲」を世界に広く知らしめました。
鍾任壁さんの息子で、「新興閣」6代目の鍾任樑さんは、「父の布袋戲人生に言葉を添えるとしたら『世紀人,甲子藝,卅年傳承,滿腔熱忱,一心執念(世紀の人、60年の芸、30年の伝承、熱意に溢れ、ポテヒに一途)』だ」と語っています。
鍾任壁さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
Rti 台湾国際放送
Rti 台湾国際放送 
