<第1セクション:シンガーソングライターの夢と挫折、モンゴルの風で覚醒>
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リスナーの皆さん、こんばんは。先日、東日本大震災から14年目を迎えた。2011年3月に立ち上がったボランティア組織「復興支援メディア隊」のメンバーとして、私も被災地での復興支援に奔走した日々を思い出す。そして、東北地方の復興に向けて、台湾からの200億円を超える義援金が届けられたことは、今でも多くの日本人の記憶に留まっている。今年も先週の日曜日の3月9日に、台北のMRT淡水駅前の広場で「謝謝台灣」のイベントが、台湾に留学中の日本人留学生を中心とする実行委員会の主導で行われた。
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311という日は、この地震や津波等の被害で亡くなった方々を追悼する日であるのと同時に、私たち日本人にとっては、一番苦しい時に最大限手を差し伸べてくれた台湾の方々への感謝の気持ちを忘れないよう自ら確認する日でもある。私もこの震災で犠牲となった方々へ心からの哀悼を捧げるとともに、台湾の皆さんのあの時の温かいお気持ちに改めて感謝申し上げたい。311は辛く重い出来事だったことは確かだが、この震災を通じて台湾という国の存在を多くの日本人が認識するようになり、日本と台湾との精神的距離が一挙に縮まったことは何より大切なことだろう。
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さて、私もこのように精神的距離が縮まった台湾に移住を決意した一人だが、3月4日付の台湾の三大紙の一つ「聯合報」副刊の家庭欄に、「五十歳からの私の歌い手人生(原題:半百後的走唱人生)」と題する記事を一本執筆した。原文の記事は繁体字の華語であるが、本日はこの記事の内容を展開しつつ、私の音楽家としてのこれまでの歩みを、リスナーの皆さんにご紹介していきたい。
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私は幼い頃から、Nat King ColeさんやAndy Williamsさん、Frank Sinatraさんといったアメリカのスタンダードナンバーの歌い手の楽曲の数々を、父親がかけていたレコードで聴きながら育った。とりわけAndyさんの歌声が大好きだった。小学生の頃にテレビで放送されていた『Andy Williams Show』を欠かさず観ていたし、高校3年の時には、来日したAndyさんのコンサートに貯金を叩いて駆け付けるくらいのファンだった。Andyさんの甘い歌声とユーモアあふれる軽妙なトークのすっかり虜となっていた。
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そんな私は歌を歌うことも大好きだった。中学時代にはCarpentersやSimon & Garfunkel、Billy Joelさんがお気に入りのアーティストとなった。松崎しげるさんの歌唱力に戦慄を覚えてからは、歌謡曲も聴き始めた。高校時代になると、北海道出身のフォーク・シンガー松山千春さんに傾倒するようになり、レコードやカセットテープを自分で買っては繰り返し聴き、松山さんの物真似をしながら歌うようにもなった。当時は近所迷惑にならないようにと、押入れの布団の中に顔を突っ込んで歌っていたと、今も母にはからかわれる。その後、北海道大学に入学すると、中島みゆきさんも所属していたことのある「フォークソング研究会」というサークルに入り、ギターの弾き語りを始め、オリジナルの楽曲も発表するようになった。こうしていつしか私はシンガーソングライターになることを夢見るようになっていた。
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当時、『ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト』がシンガーソングライターへの登竜門だった。サークルの大先輩の中島みゆきさんをはじめ、台湾でも華語にカバーされ、多くの人に知られているCHAGE & ASKAさん、長渕剛さんといったスターたちもこのコンテストからデビューしていった。実は私も毎年このコンテストには応募していた。しかし、最初の予選のテープ審査で毎回落選、北海道の地方大会にコマを進めることさえできなかった。自分には音楽の才能はないと悟り、失意のうちに音楽の夢は諦めた。それから1年半ほど民間会社での仕事を経て、日本の外務省が所管する国際交流基金に入り、日本と諸外国との文化交流の業務に携わるようになった。
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それから十数年の月日が流れていた。自分がかつて歌を創作していたことさえ忘れかけていた。2002年の夏に、私は当時小学校6年生と4年生だった二人の息子と一緒にモンゴルを旅した。その頃、息子たちは地元の少年サッカークラブに所属し、私も次男の学年のチームのヘッドコーチをしていた。ラインが引かれていない無限のモンゴルの草原でサッカーをしようと誘うと、彼らも二つ返事で乗ってきたのだった。もう一つの目的は、モンゴルの大草原を心ゆくまで馬で疾走することだった。
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モンゴルに出入国する移動日の前後には、首都のウランバートルのホテルに宿泊したが、そこから車で5時間ほど離れたモンゴルのゲルのリゾート基地のブルドから、チンギス・ハーンが都を建てたカラコルムまでの100km余りを2泊3日かけて馬で駆け抜けるツアーに私と息子たちは参加した。私は馬に乗って草原を疾走していた時、自分が風と一体になったような感覚となった。その瞬間、モンゴルの大地の奥底から「Wonder land,wonder land···」というフレーズとともに音楽が湧き上がって来たのだった。モンゴルの少年を題材に歌った『ガンガの大地』はこうして生まれた。実に十数年ぶりの創作曲となった。
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私は感性は年齢とともに衰えていくものだと思っていた。でもそれは違った。私の感性は表面に埃を被っていただけだった。自宅の部屋の片隅に置きっ放しになっていたあのギターのように。その埃はモンゴルの風が吹き払ってくれた。ここで、その『ガンガの大地』を台北のBar Betweenさんでのライブ前のリハーサルの音源でOA。
<第2セクション:絶望の縁からの再出発、スラッシュ人生への転身>
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それから再び私はギターを手にし、歌を創作するようになった。2003年〜2006年にはオーストラリアのシドニーに駐在し、先ほどご紹介した『ガンガの大地』も収録した自主制作のミニアルバム『From the Red Earth』を発表。このアルバムの制作に当たっては、メルボルン在住のバイオリニスト、ピアニストで音楽プロデューサーのTom Fizgelardさんやシドニー在住の琴奏者の小田村さつきさんら地元の音楽家たちが全面的に協力してくれた。
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続いて、2007年〜2010年に台湾に駐在した際には、台湾の若手ミュージシャンたちとバンドを組み、2か月に一度のペースで台北の老舗のライブハウス「河岸留言/Riverside Cafe」や「女巫店/Witch’s House」などで演奏を始めるのとともに、インスピレーションが湯水のように沸いて来て、3年半の滞在中に40曲以上もの楽曲を創作した。そのうちの1曲『君がいるから』が、2012年の台湾映画『逆光飛翔(邦題:光にふれる)』のエンディング・テーマソングで、葛大為が華語で新たに歌詞を付け蔡健雅が歌った『很靠近海』となった。昼間は日本の代表窓口機関の交流協会(現・日本台湾交流協会)台北事務所の文化室長として、日本と台湾の文化交流の橋渡しに奔走し、週末も文化イベントや国際シンポジウムなどの行事が続く中、深夜の限られた時間が創作の源となった。
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2010年9月に交流協会台北事務所での駐在の任期を終えると、翌年の2011年1月1日付けで、二十年間務めた所属先の国際交流基金を辞職した。直ぐにでも台湾に戻って音楽活動を再スタートさせたかったが、この年311東日本大震災が発生したのだった。このため、冒頭で述べたように1年半ほどの間は、友人の映像関係の会社の仕事を手伝いながら、被災地に入って「復興支援メディア隊」の一員として復興のお手伝いをさせていただいた。
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2012年9月に、先ほど述べた台湾映画『逆光飛翔(邦題:光にふれる)』の公開のタイミングで、フリーとなった私は台湾に再び拠点を戻した。続いて大手レコード会社の専属ソングライターの契約も結んだ。全てが順風満帆に思えた。しかし、現実はそんなに甘くなかった。五十歳を過ぎた”新人”ソングライターとコラボしようというアーティストは現れず、生活は直ぐに窮した。信頼していた人間からも裏切られ、心が折れかけた。
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そんな時に私を常に信じ支え続けてくれたのが、妻であり、今も一緒に活動をしている音楽仲間、創作仲間たちだ。彼らには感謝してもしきれない。私は自分の生活の理想と現実のバランスを見直し、生活のために三年間居酒屋の店長も務めた。その一方、私は俳優やライターやラジオのパーソナリティーの仕事にも恵まれるようになり、自分の表現の場所を徐々に広げていった。台湾ではよく見かける「スラッシャー(掛け持ち人生)」の一員となった。
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そして、あっという間に再び十数年が過ぎ、一昨年に還暦も迎えた。今でも台北市内のバーや居酒屋やライブハウスでのライブ演奏や台湾各地でのイベントに、ソロやバンドで出演し、毎月平均8〜10本のステージに立ち続けている。まさに「この世の春」。我が「走唱人生(歌い手人生)」ここに在りである。
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ここで台湾映画『逆光飛翔』の主題歌となった『很靠近海』とその日本語の原曲『君がいるから』を八得力樂團の2019年2月に行われた「女巫店」でのライブ映像でお聴きいただきたい。
<第3セクション:「走唱人生」は続くよ、どこまでも>
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昨年末の紅白歌合戦で、The Alfee、南こうせつさん、イルカさん、高橋真梨子さんなど、1970年代、1980年代を代表する往年のフォーク歌手、ニューミュージックの旗手たちが、懐かしい歌声を披露してくれた。私が驚いたのは、ほぼ全員70歳を超えているのに、全く衰えを感じさせない演奏をしていたことだ。私も諸先輩方の背中を追いかけながら、生涯現役を貫けたらと思う。
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私の座右の銘は「昨日を悔やまず、明日を憂えず」。今この瞬間瞬間を前を向いて進んでいくだけだ。今年は現在掛け持ちしている三つのバンドのそれぞれで「眼に見える、耳に残る」をキャッチフレーズに音楽を形にしていこうと思う。現在、日台混成の3人組「流し」バンドの「八得力樂團 / Battery」、沖縄音楽を主体とした三線奏者Amiさんとの2ピース・ユニット「爸咪 / BAMI」、1980年代の日本テイストで日台混成の四人組のガチバンド「搖滾爸爸 / BABA ROCK」を掛け持ちしている。そのそれぞれで、新作のレコーディングを進め、イベントの出演機会を増やして行こうと思う。まずは4月25日の「女巫店」の一年ぶりの八得力の単独ライブを成功させたい。
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本日、先日「聯合報」に発表した私の記事を下敷きに、私の歌い手としての半生を振り返ってみた。「千里の目を窮めんと欲し、更に上る一層の楼」の精神で一段上の景色を眺められるよう尽力したい。本日のお別れの曲は、私のオリジナルで日本台湾交流協会台北事務所の駐在員時代に書いた『一ミリのしあわせ』をお聴きいただきたい。
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「聯合報」副刊家庭欄「五十歳からの私の歌い手人生(原題:半百後的走唱人生)」ウェブ版: https://reading.udn.com/read/story/7347/8562876
Rti 台湾国際放送
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