<第1セクション:お墓にだって行くってどういうこと?:『墓仔埔也敢去』>
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リスナーの皆さん、こんばんは。本日は「台湾に根を下ろした日本歌謡」シリーズの第16回、国民的ロック歌手の伍佰(ウー・バイ)さんがカバーした日本語がオリジナルの楽曲を紹介していきたい。伍佰さんは本名を吳俊霖(ウー・ジュンリン)と言い、1968年に嘉義県の六腳鄉蒜頭村に生まれた。シンガー・ソングライター、音楽プロデューサー、俳優として活動しているが、ロックバンドの「伍佰&チャイナブルー」のボーカル兼リードギタリストとしてのライブ活動がメイン。数万人規模の会場での動員記録を何度も塗り替え、『King of Live』の異名を取るほどの人気ぶりで、ライブのチケットはいつも「秒殺」。
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1992年に本名の吳俊霖でソロアルバム『愛上別人是快樂的事(誰かを愛するのは喜び)』でデビュー。同じ年に「伍佰&チャイナブルー」を結成し、33年経った今でもオリジナルメンバーのまま変わっていない。台湾語や台湾訛りの強い北京語の歌詞を、パワフルでいどこか懐かしい、台湾の気候のようなウェットなロックサウンドに載せて歌うステージは、台湾の幅広い年齢層から支持されている。そんな伍佰さんだが、彼の、あるいはバンドの代表曲に、実は日本語のカバー曲もいくつかあることをご存知だろうか?より正確に言えば、1960年代〜1970年代に台湾の歌手によってカバーされた楽曲を、伍佰さんがさらにカバーしてヒットしたという珍しい構図となっているのだ。
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例えば、1964年に橋幸夫さんが歌って日本でヒットした『恋をするなら』。この曲自体は、日本では橋さんの音楽の師匠でもある吉田正さんがアメリカ西海岸の「サーフ・ロック」と言われるサウンドを下敷きに作った、日本の「リズム歌謡」の先駆けとも言えるものだった。作詞は佐伯孝夫さん。出だしの「炎のように燃えようよ」やサビの「A・I・E・O」のフレーズも当時は斬新で、レコードの売り上げは1966年には100万枚のミリオンセラーになったと言われており、この年の紅白歌合戦で橋さんはこの歌を披露している。
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日本でリリースされたその年の1964年に、台湾でも葉啟田(イエ・チーティエン)さんが『墓仔埔也敢去(お墓にだって行くさ)』のタイトルで歌い大ヒット、この曲で一気にスターダムにのし上がった。作詞は郭大誠(グオ・ダァチェン)さん。葉さんはその後も台湾語歌謡のヒットを飛ばし続け、後に「寶島歌王(台湾の歌のキング)」と呼ばれるようになる。しかし、なぜ歌謡曲にお墓が出てくるのか?最初にこの曲を台湾語で聴いた時には、「なにそれ?」と違和感を覚えた。
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台湾語版には「狂戀的人有勇氣,不驚一切呦。無論三更也半瞑,墓仔埔也敢去。(狂ったように恋をする人は恐れを知らない。もちろん真夜中にお墓にだって行くさ)」というフレーズが登場する。台湾語で歌詞を付けた郭さんは、要するに恋に焦がれた者は、どんなことにも恐れないということを、自分が幼少期に恐怖を感じた夜のお墓を引き合いに、台湾風にアレンジしたということだ。そして、この「寶島歌王」の葉さんが歌ったこの曲をさらに伍佰さんが1995年に発行したライブアルバム『枉費青春(青春を無駄に過ごす)』の中でカバーしている。葉さんのバージョンがリリースされてから、実に30年の歳月が過ぎているが、このことは後ほど改めて触れたい。では、伍佰&チャイナブルーの演奏で『墓仔埔也敢去(お墓にだって行くさ)』をOA。
<第2セクション:星はなんでも知っている:『星星知我心』>
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さて、続いてご紹介する曲は、後の作曲家としても広く活躍したロカビリー歌手時代の平尾昌晃さん(歌手時代の表記は「平尾昌章」)が歌った『星はなんでも知っている』。この曲は1958年制作の日活青春映画『星は何でも知っている』の主題歌として発売され、累計のセールスは50万枚とも100万枚とも言われている大ヒット曲である。作詞は水島哲、作曲は津々美洋。アメリカのエルビス・プレスリーなどの影響を色濃く受けたビートの効いた1曲で、当時は極めて衝撃的なサウンドだった。平尾さんはその後も1966年にこの曲のシングルを再販、1976年には当時流行したディスコ・バージョンもリリースし、文字通り平尾さんの代表曲となっている。
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そして、その曲を台湾語にカバーしたのが、3年前に93歳で帰らぬ人となってしまったが、これまた「第一代寶島歌王」、「國寶歌王」、「台灣歌神」の異名を持って賞賛された文夏(ウェン・シア)さんだ。台湾語版のタイトルは、日本語をそのまま翻訳した『星星知我心(星は僕の心を知っている)』である。台湾語の作詞も文夏さんが手掛けているが、日本統治時代に日本語世代として台南で育った文夏さんの台湾語の歌詞は、この歌に限ったことではないが、日本語の意味を正確に汲み取り、日本語の歌詞に寄り添ったものとなっている。1958年にリリースされた藤島桓夫の『俺らは東京へ来たけれど』のカバー曲で、母の日の定番ソングとして台湾で歌い継がれている『媽媽請妳也保重』も文夏さんの作詞、歌だ。
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そして『星星知我心』はさらに、『KISS ME(星星知我心)』のタイトルで伍佰さんによってカバーされている。本日の二曲めは、伍佰&チャイナブルーさんの演奏で『星はなんでも知っている』の台湾語のカバー曲『KISS ME(星星知我心)』を、先ほどと同じく1995年にリリースされたライブ版からOA。
<第3セクション:情熱的な愛の歌に変身:『愛妳一萬年』>
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日本の歌謡曲を台湾語でカバーした楽曲の多くは、伍佰さんの両親や祖父母など一つ、二つ上の世代の愛唱歌である。伍佰さん自身はかつてインタビューで「日本の懐メロを歌っている意識は無かった。子どもの頃から慣れ親しんだ台湾語の歌だったから」と語ったそうだ。なぜ台湾で日本歌謡がカバーされ続けるのか、この言葉がその本質を物語っていると思う。台湾では「好聽」と感じられる良い歌は、世代を超えて歌い継がれるものなのである。伍佰さんが「寶島歌王」の葉啟田さんのカバーした楽曲を30年後にさらにカバーするという現象は、実に象徴的である。日本では90歳近くになる私の両親の世代ですら忘れてしまった歌が、台湾では現代まで脈々と受け継がれていることには、つくづく感動する。感謝の念すら湧いてくる。これこそまさに、私が「台湾に根を下ろした日本歌謡」をシリーズで取り上げているモチベーションともなっている。
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その一方で、伍佰さんが述べた「日本の懐メロを歌っている意識は無かった。子どもの頃から慣れ親しんだ台湾語の歌だったから」言葉には、もう一つ当時の時代背景としてお断りしておかなければならないことがある。文夏さんら伍佰さんの先輩たちが最初に日本の楽曲をカバーした1950年代後半から1970年代は、まだ著作権の概念が希薄であった。これらの時代に日本語が原曲で台湾語にカバーされた楽曲のほとんどが、作曲者を単に「日本曲」と記してあるだけだったり、ややもすると「佚名(不詳)」と表記されていた。台湾の流行音楽の世界では、ヒットメーカーたる作曲者が不足していたという事情もある。そこで出自不明ということにして日本のヒット曲を借用したという構図だろう。伍佰さんがカバーした1990年代には、さすがに遡ってオリジナルの作曲者は明記されているものの、伍佰さんが幼少期から聴いていた日本語がオリジナルの楽曲を「慣れ親しんだ台湾語の歌」と認識していたとしても、それはそれで不思議ではない。
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そして、伍佰さんの音楽は台湾という土地の香りがどっぷりとするサウンドであるのだが、その中には台湾でカバーされ続けた多くの日本歌謡も確実に血となり肉となって入り込んでいることが伺える。私も含めてであるが、台湾に在住している日本人の中には伍佰さんのファンは実に多い。「台湾的」でありながら、メロディーラインやコード進行が日本の歌謡曲を彷彿させることもあり、一言でいうとどこか懐かしく、違和感がなくスッと耳に入って来る音楽なのである。
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最後にご紹介する曲は、伍佰さんの看板曲の一つともなっている『愛妳一萬年(一万年愛してる)』。この曲はジュリーこと、沢田研二さんが1975年に歌ってヒットした『時の過ぎゆくままに』が原曲である。阿久悠さん作詞、大野克夫さん作曲の名曲だ。台湾でこの曲を最初にカバーしたのは、一昨年帰らぬ人となってしまったが、「台湾原住民」プユマ族の歌手・萬沙浪(Vansalrang)さん。Vansalrangはプユマ語で「青年勇者」の意味。漢名は王忠義と言った。1977年に杜莉さんの作詞で北京語版の『愛你一萬年』はリリースされたが、この曲を台湾で誰もが歌える名曲に押し上げたのは、やはりこの人、伍佰さんだった。
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先ほどの橋幸夫さんの『恋をするなら』の台湾語のカバー曲『墓仔埔也敢去(お墓にだって行くさ)』と同じく、1995年にリリースされた伍佰さんのライブアルバム『枉費青春(青春を無駄に過ごす)』に、この楽曲は収録されている。では、本日のお別れの曲は、伍佰&チャイナブルーがライブで北京語で歌った『愛妳一萬年』をOA。沢田研二さんの歌った退廃的な愛の世界ではなく、超ポジティブで情熱的な愛の歌となっていて、台湾ではプロポーズや披露宴でも歌われるということを付け加えておく。
Rti 台湾国際放送
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