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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」) - 2023-12-24-百年に跨る台湾の俳句歳時記

  • 24 December, 2023
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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」)
黄霊芝著『台湾俳句歳時記』

<第1セクション【台湾の日本語世代と台湾俳句の黎明期」】>

  • リスナーの皆さま、こんばんは。今日はクリスマスイブ。台湾の商店街や大通り、マンションや個人のお宅でも華やかな飾り付けをし、家族や恋人、友人たちとお祝いをしている皆さんも多いことだろう。アメリカのピュー・リサーチ・センター(Pew Research Center)の調査によると、台湾でキリスト教を信仰する人は、カトリック、プロテスタント、その他も含め、およそ7%だそうだ。蒋介石、蒋経国、李登輝といった歴代の総統の皆さんもキリスト教徒だった。キリスト教の教会では、ちょうど今頃、厳かにクリスマスのミサも行われているはずだ。

  • 大変残念なことに、今年も多くの日本語世代の先輩方が歴史の舞台から去ってしまわれた。日本でも出版された小説『台湾の少年』のモデルとなった蔡焜霖さん、正しい日本語を話すことを目的に長年活動を続けてこられた「友愛会」リーダーの張文芳さん、台湾と日本の経済交流に尽力され、台日交流協会会長も務められた彭榮次さん、台南に拠点を置いて、家電から食品まで幅広い事業展開をされ、自らも芸術家であった「奇美」グループ創業者の許文龍さん・・・この場をお借りし、諸先輩方の長年の台湾と日本の交流に対するご功績、ご尽力に心より敬意を表し、また私たち後輩に対するご薫陶の数々に感謝を申し上げたい。

  • 台湾の日本語世代とは、終戦当時「公学校」と呼ばれた小学校卒業以上、すなわち1945年当時12歳以上だった世代を指す。戦後78年が経った今年、既に90歳以上の大先輩たちということになる。この世代の方々の話される日本語を聴くと、いつも背筋が真っ直ぐに伸びる。日本語だけではなく、日本の文化も深く理解し、俳句や短歌を詠む方々も少なくない。私の手元にバイブルのように大切にしている本が1冊ある。『台湾俳句歳時記』(2003年、言叢社)、著者は台北俳句会を主宰されていた黄霊芝さんである。この『台湾俳句歳時記』は、翌2004年に正岡子規国際俳句賞を受賞している。この本は絶版になったが、今はウェブ版で買えるらしい。台湾の風物に関心のある方には是非お勧めしたい1冊だ。

  • 本日は黄霊芝さんが詠まれた俳句の話を紹介していこうと思うが、その前に時代を遡って台湾俳句の黎明期について触れておきたい。台湾でも日本統治時代の幕開けとともに台湾に在留する日本人が、続いて日本語教育の普及とともに大正時代以降は台湾人の間でも、俳句を詠む人々が少なからずいた。しかしながら、亜熱帯から熱帯に属する台湾では、日本とは気候が異なり、言葉や年中行事をはじめとする文化習俗も異なり、また生息する動物や植物も異なった。この時に一番問題となったのが、俳句の生命線である「季語」をどう扱うかということだった。この点は、台南在住の歴史研究者・黒羽夏彦さんが、自身のブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」で明快に解説してくださっている。

  • 正岡子規の門人で台湾俳壇の基礎を作った渡邊香墨は、明治33年(1990年)5月24日付の高浜虚子宛の手紙でこのように記しているという。「文學上の趣味と申しては殆ど無之、四季の順序等も相立たず、今頃桂花若くは鳳仙花の如き内地に於ては秋季に於て見るべきものの花盛りなるが如き、内地人の眼より見れば實に奇々妙々にして季の感じ亂れ、俳句などは出来不申候」(島田謹二「正岡子規と渡辺香墨」『華麗島文学志』、141頁)。 

  • 要するに、台湾の景色を俳句の世界で描写しようとしても、日本の歳時記で決められている季語との間で季節感がズレてしまい、作句などとてもできないという意味である。正岡子規が提唱し、日本の俳壇で主流となりつつあった「写生」ををしようとしても季語が当てはまらない。季語を重視しようとすれば「写生」が成り立たない。

  • 黒羽さんは渡邊香墨の手紙を引用しつつ、「台湾領有当初に作られた俳句を見ると、ふるさと日本をテーマした作品が多いのだが、それは単にノスタルジーというばかりでなく、季語の使いづらさにも一因があったのかもしれない。香墨はこうした葛藤を経ながらも台湾の情景描写に力を尽くし、島田謹二は「台湾在住の内地人の見たこの土地の自然と生活とを俳句の世界に盛った最初の知名作家である」と評している(島田「正岡子規と渡辺香墨」、166頁) 」と述べている。

  • 渡邊香墨は本名を渡邊助治郎といい、常陸国というから茨城県の出身だった。東京法学校(現在の法政大学)を出て裁判官となって新潟県に任官。1894年に正岡子規門下となり、子規をして『東京に五城(数藤五城)あり、越後に香墨(渡邊香墨)あり、大阪に青々(松瀬青々)あり』と評されるほどだった。台湾には台湾総督府法院の検察官として1900年に赴任し、俳句雑誌『相思樹』を創刊し、台湾俳句界の指導者的立場として活動した。1895年から1906年まで台湾総督府文書課の文官として任官していた私の曽祖父・梛野尚猪とももしかすると面識があったかもしれない。そんな想像も膨らむ。

  • 渡邊香墨が法律家と俳人という二足の草鞋で台湾で活躍していた時代から少し遅れて、1908年に台湾縦貫鉄道が、基隆〜高雄間で全線開通した。その2年後には台湾周遊唱歌も完成。台湾の地理や歴史を踏まえながら、台湾各地の風物を歌い込んでいる。全部で90番あり、通して歌うと30分近くかかるので、本日はそのうち4番だけピックアップして、私の弾き語りで紹介したい。お時間がある方は、YouTubeでボーカロイドの「初音ミク」版を90番まで全てお聴きいただけるので、そちらもご参照いただきたい。

 

<第2セクション【台湾独自の「季語」を編み出し、台湾独特の俳句が完成】>

  • さて、先ほどお話した台湾独自の状況を俳句に読み込もうとする際に立ちはだかった「季語」の問題であるが、その後「無季語」で処理をしようという動きが生まれた。と同時に、もう一つの流れとして、台湾の季節感に添った季語を新たに創出するグループも現れた。この中心人物になったのが埼玉県出身の小林里平(李坪)である。1900年頃台湾に渡り、法院嘱託として台湾固有の習俗を調査する「台湾慣習調査会」に所属し、また総督府管轄の台北地方法院の書記官も兼任していた人物である。里平は、人事、動物、植物に分類して、台湾特有の季語を定めて、1910年に『台湾歳時記』を刊行した。渡邊香墨といい、小林里平といい、法律家が台湾初期の俳壇を支えていた点は面白い。

  • そして、この流れが台湾では徐々に主流を占めていく。黒羽夏彦さんは、日本の比較文学の先駆者で東大教養学部教授にして、文化功労者でもある島田謹二の論述を引きながら「俳句は情景描写を主とするが、日本と台湾との風土的相違を無視して日本基準で俳句の良し悪しを判断しようとすると、台湾固有の風土に根ざした作品を評価することはできなくなる。そこで、日本内地基準の歪みを避けるため、台湾の風土を熟知して生活実感のある在住者が選者となる必要が提起され、それについて島田は前田普羅の言葉を借用して「俳句台湾の自治」と表現している。」と解説している。この時期の台湾の俳句の世界について、詳しい経緯や内容を知りたい方は、黒羽夏彦さんの「ふぉるもさん・ぷろむなあど」( http://formosanpromenade.blog.jp/archives/91904584.html)を是非ともご参照いただきたい。

  • ここで戦前の台湾歌謡の父で『望春風』や『雨夜花』などの数々の名曲を生み出した鄧雨賢が作曲し、彼の作品として1932年に初めてレコード化された『大稻埕行進曲』をお聴きいただきたい。90年以上も前のレコードの音源であるが、台北一の繁華街であった往年の大稻埕の四季折々の風物を日本語で歌い込んだ1曲となっている。歌を吹き込んだ歌手は、江鶴齢とレコードの盤面に印刷されているが、このレコードを発行した文聲唱片の江添壽社長であると言われている。往年の日本語世代の方々も台湾の街角の蓄音機の前でこの歌を聴いていたかもしれない。江添壽さんの歌、鄧雨賢作曲の『大稻埕行進曲』をOA。

  • さて、それから時代は90年以上後に飛ぶ。先ほどお話した台湾の日本語世代の黄霊芝さんによって、『台湾俳句歳時記』が2003年に日本で刊行された。小林里平(李坪)の『台湾歳時記』をオマージュしつつも、例句が少ないという部分を補い、台湾人としての知見と感性を前面に押し出した労作、傑作となっている。

  • 黄霊芝さんは本名を黄天驥と言い、台南で生まれた。父親は台湾総督府の評議員でもある地元の有力者だった。戦後、国立台湾大学外国語学部に入学、しかしながら結核を患い中退。その後は、当時は禁止されていた日本語で小説の執筆活動を密かに行い、群像新人文学賞に応募したり(一次選考通過)、地方新聞の「岡山日報」に小説や俳句も投稿したりしていた。1970年に台北俳句会を結成し、亡くなる2016年まで主宰した。黄さんとは私も2010年ごろ、一度食事をご一緒し談笑させていただいたことがある。その頃は黄さんの足はもうだいぶ悪かったが、非常にかくしゃくとされ、台湾の俳壇について随分と教えを乞うた。

  • 私が黄霊芝さんの俳句で最も心を打たれるのは、文化の混成という立場から、その俳句を鑑賞した時に感じた完成度とオリジナリティの高さだった。黄さんの『台湾俳句歳時記』では、日本ほど四季のハッキリしない台湾の季節を「暖かい頃」「暑い頃」「涼しい頃」「寒い頃」の四つに分類し、それぞれの「季語」を定めている。また、年中行事や習俗のカテゴリーでは、台湾語をそのまま「季語」として定めているものもある。私の特に気に入っている黄霊芝さんの作品を季節ごとに一句ずつ紹介したい。いずれも『黄霊芝作品集』(全15巻)に収められている。

  • まず「暖かい頃」。「蛤に夕餉近づく固き口」。蛤(はまぐり)は日本でも春の季語だが、台湾でも「暖かい頃」に分類されている。これから料理される前の蛤の悲壮な思いがヒシヒシと伝わってくる一句だ。次に「暑い頃」。「水牛と同じ顔して吃檳榔(チャプンヌン)」。「檳榔嚼む」が季語となる。これは檳榔を噛んでいる人の顔が、水牛が草を喰む顔と似ていると、実にユーモラスに揶揄しているのである。

  • 続いて「涼しい頃」。「秋蝉の呼び合ふ西の二つ山」。季語はもちろん「秋蝉」である。夕暮れに染まる西の方角に位置するの二つの山に鳴く蝉が、お互いにお互いを呼び合っているようだというこの句は、一日の終わり、秋の終わり、生命の終わりを予感させ、西方の極楽浄土をも感じさせてくれる。それでいて、一幅の壮大な風景画のようでもある。

  • 最後に「寒い頃」。「尾牙(ボエゲエ)や口には出せぬ火の車」。この句の季語となっている「尾牙」をまず説明しなければならない。「尾牙」は旧暦の12月16日に行われる一年で最後の「拝拝(バイバイ)」と呼ばれる、土地の守り神の「土地公(トオデエゴン)」にお供物をして参拝する風習のこと。翻ってこの時期に台湾で「尾牙」は、会社や店のオーナーがスタッフを全員招待して催される「忘年会」のことをも指すようになった。その忘年会である「尾牙」の費用は全額オーナーが負担するのが慣わしだが、この会社はどうも経営が火の車のようだ。しかしながら、オーナーはスタッフに対して自分のメンツを保たねばならず、口にも出せないし、顔にも出せない。そんなオーナーの苦悩が滲み出た一句である。

  • 俳句は紛れもなく日本で誕生した文学形式であり、五七五のわずか十七音に凝縮された世界でも稀な短い詩である。しかし、台湾の地に根付いて、日本語を高度に操ることができる台湾の人々を通して、彼らにしか表現できない唯一無二の境地を生み出している。文化の混成を自分のライフワークの一つと考えている自分にとっては、本当に感嘆し、愛おしい作品の数々である。改めて台湾の日本語世代の先輩方に心からの敬意を捧げたい。

  • 最後に八得力樂團の演奏で日本統治時代の1933年に李臨秋作詞、鄧雨賢作曲で純純の歌で大ヒットし、今日まで歌い継がれている台湾語の名曲『望春風』をお聴きいただきたい。2番には、日本語世代の陳清波さんが作詞された日本語の歌詞が登場するので、そちらにもご注目いただきたい。

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