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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」) - 2023-10-15-台湾に根を下ろした日本歌謡⑥:「時に愛は」「神田川」「男と女」

  • 15 October, 2023
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<第1セクション【齊秦「不必勉強/時に愛は」】>

  • 本日は「台湾に根を下ろした日本歌謡」の第6回。1970年代後半から1980年代にかけて日本ではニューミュジックと呼ばれる音楽ジャンルが大変流行した。ニューミュージックは「作曲面ではフォークソングにロックなどの要素を加え、作詞面ではそれまでのフォークソングの特徴であった政治性や生活感を排した新しい音楽であった」と規定されている。私自身の感覚では、本来はフォークソングとして分類されていたシンガーソングライターの手による楽曲が、よりポップに、より洗練されたのがニューミュージックであり、これによって歌謡曲、流行歌と同じ舞台に立つようになった時代というのが一番近いイメージだ。この時代は私の青春真っ只中と重なる。そして、私自身の作る楽曲もこのニューミュージック全盛時代の影響、恩恵を受けている。

  • ニューミュージックは、その一つ前の1960年代後半から1970年代中盤の日本のフォークソング全盛時代の音楽と同様に、台湾ではあまりカバーされていない。これは台湾が1987年まで戒厳令が敷かれていて、日本語の音楽自体、放送で流すことが禁じられたことが大きいように思う。台湾語と親和性の高い日本の演歌の楽曲が、日本の曲であるという事実が伏せられ、戒厳令の目をかいくぐって、広く普及していたのとはある意味対照的だ。実際、1950年代、1960年代に台湾語にカバーされた楽曲の多くが「作曲者不明」として扱われていた。著作権の概念も薄かった時代でもあり、この辺りの時代背景は酌量しなければならないだろう。日本の流行歌が大量にカバーされるようになったのは、台湾が民主化に舵を切り、日本の流行歌がJ-Popと呼ばれるようになった1990年代まで待たなければならない。

  • そのような中で先日紹介したシンガーソングライターの齊秦さんが、1985年にリリースしたセカンドアルバム『狼的專輯(狼のアルバム)』に『不必勉強(無理する必要はない)』という曲を収録している。この曲との出会いは、私のバンド八得力樂團(バッテリー)である店でライブをしていた時に、お客さんからのリクエストに応じてバンドのリーダーの阿家(A-Ga)が歌い始めた時に、どこかで聞き覚えがある曲だと思いながら、初見で楽譜を見ながらギターを弾いたのがきっかけだ。サビのメロディーで確信した。日本では1980年にシングルがリリースされ、大ヒットしたあの曲だった。どのアーティストのどの曲のカバーだったのか?まずはお聴きいただきたい。齊秦さんのセカンドアルバム『狼的專輯(狼のアルバム)から『不必勉強(無理する必要はない)』をOA。

  • 正解はオフコースの名曲『時に愛は』だ。まだ戒厳令が解かれる前の1985年に齊秦さんがすでにオフコースをカバーしていたのが驚きだ。しかも、齊秦さんのオリジナル楽曲に混ざって、この曲が何の違和感も無く収まっているのが何とも不思議だ。だが、翻って考えれば、実はこの時期の齊秦さんの楽曲が、オフコースをはじめ、日本のニューミュージックに影響を受けていた証ととも捉えることができるだろう。

 

<第2セクション【テレサ・テン「珍惜/神田川」】>

  • 次にご紹介するのは、鄧麗君(テレサ・テン)の1984年のアルバム『島國情歌第八集《愛的使者、往事如昨》(島国の恋歌:愛の使者、あの頃のように)』に収められている『珍惜(大切にする)』という曲である。日本でも大ヒットしたフォークの名曲。皆さんもご存知の南こうせつさんが率いる「かぐや姫」の代表曲で1973年にリリースされ、日本のヒットチャートで6位まで登り詰めた『神田川』だ。台湾では日本のニューミュージックが取り上げられることはほとんどなかった。にもかかわらず、テレサ・テンさんが『神田川』を自分のアルバムで拾い上げているのには理由があると思う。1970年代から1980年代、ニューミュージックの全盛期は、テレサ・テンさんが『空港』から始まり、『つぐない』『愛人』『時の流れに身を任せ』と日本で大ヒットを立て続けに飛ばしていた時代とも重なる。日本で生活する時間が長かったテレサ・テンさんは、きっと多くのニューミュージックを耳にしたことだろう。そういう布石があって、『神田川』も取り上げられたのだろう。

  • 日本と台湾の戦後の音楽交流史において、テレサ・テンさんの果たした役割は計り知れない。日本語や日本文化との関わりにおいて、台湾には大きく分けて三つの世代が存在すると、私は講演会などでもたびたび説明してきた。最初の世代が、日本語教育世代。すなわち現在、概ね90歳以上の日本統治時代に学校で日本語教育を受けた世代で、母語と同じレベルで、ある意味では現代の日本人よりも由緒正しい日本語を話す方々である。戦後78年が経ち、歴史の舞台からこの世代の先輩方が次々と去られていくのはまことに寂しい限りだが、間違いなくこの世代の方々の存在が、台湾の日本文化に対する理解を牽引し続けてきた。そして、二番目の世代が、私が「日本語戒厳世代」と名付けた方々である。台湾の38年にわたった戒厳令の下、教育や放送の等、公共の場で日本語が禁止されていた時代に、自分の両親の世代が話す日本語を聞いたり、日本語が原曲で台湾華語や台湾語にカバーされた曲を歌ったり、旅行者が持ち込んだビデオテープで日本の娯楽番組を密かに楽しんだり、多くの場合、間接的に日本文化と接した壮年〜老年の世代。三番目が1990年代以降、台湾の民主化が進む中で、日本のサブカルチャーをほぼ同時代的に共有し、享受した「哈日族」という言葉に代表される青年〜壮年世代。現在は次の四番目の世代が出現しているのだが、今回は触れない。

  • テレサ・テンは、今説明した二番目の世代、すなわち「日本語戒厳世代」と私が名付けた人々の青春時代に、先ほど取り上げた『空港』『つぐない』『愛人』『時の流れに身を任せ』などの自身のセルフカバーも含めて、大量の日本のカバー曲を台湾の人々に送り届けた。このことは、もっと注目されても良いだろう。ここで鄧麗君(テレサ・テン)の歌でかぐや姫の『神田川』のカバー曲『珍惜(大切にする)』をOA。

 

<第3セクション【周華健「讓我歡喜讓我憂/男と女」】>

  • 続いてご紹介するのは周華健(エミール・チョウ)さんの歌った『讓我歡喜讓我憂(僕を喜ばせたり憂鬱にさせたり)』だ。この曲は1991年にリリースされた同名のアルバムに収められているメインの1曲で、CHAGE & ASKAさんがその10年前、1981年にリリースした『男と女』が原曲だ。この曲の華語版の歌詞は、プロデューサーとしてもソングライターとしても、1990年代の台湾ポップスを牽引した李宗盛(ジョナサン・リー)さんが手掛けている。その後、葉倩文(サリー・イェ)さんが広東語版の『情人知己(友情は愛情にならず)』、林慧萍(モニク・リン)さんが台湾語版の『傷心PARTY』としてそれぞれカバーしている。このことからも、どれほどこの曲が人気だったかが窺い知れよう。

  • 周華健(エミール・チョウ)さんは1990年代に華語ポップス界を文字通り席巻した歌手の一人で、先日も紹介した「台湾四天王」(童安格/ アンガス・トンさん、周華健/エミール・チョウさん、王傑/デイヴ・ワンさん、齊秦/チー・チンさん)にも数えられている。日本の曲もいくつかカバーしていて、沖縄のシンガーソングライター喜納昌吉さんの『花〜すべての人の心に花を〜』をカバーした『花心』は、当時400万枚以上のメガ・セールスを記録している。このことは昨年12月19日に放送された、この「台湾に根を下ろした日本歌謡」シリーズの第2回で詳しく解説しているので、気になる方はアーカイブを検索していただきたい。そして、エミール・チョウさんは、私にとってのアイドルであり、1990年代に華語のカラオケで自分が最も多く歌ったのは彼の歌だったかもしれない。

  • 余談になるが、今年3月から4月にかけて私が俳優として参加した「公共電視(公共テレビ局)」のドラマ『聽海湧(邦題:波の音色)』で共演した周厚安(アンドリュー・チョウ)さんは、エミール・チョウさんの息子さんだ。アンドリューさんは戦後の戦地で開かれた臨時軍事法廷の検察官のトップを演じ、私は日本側弁護団のトップを演じたので、ドラマの中では軍事法廷でバチバチとやり合う関係だった。アメリカで演劇を学んだアンドリューさんの演技は説得力があり、一緒に演じていて勉強になったし、とても楽しかった。自分のアイドルの息子さんと共演できたことに、深い感慨を禁じ得ない。

  • 周華健(エミール・チョウ)さんの歌で、CHAGE&ASKAさんの『男と女』のカバー曲『讓我歡喜讓我憂(僕を喜ばせたり憂鬱にさせたり)』お聴きいただきながらお別れしたい。この曲は10月3日の日本武道館での李宗盛(ジョナサン・リー)さんのコンサートで、エミール・チョウさん、Askaさんがスペシャル・ゲストとして歌ったそうだ。三十年の時を隔ててこの曲の誕生に関わった日台のアーティストの共演、私も現場で観てみたかった。

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