History page of Radio Taiwan International (Rti)
close
Rti台湾国際放送公式アプリをインストール
開く
:::

馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」) - 2023-09-10-台湾の「原住民」ミュージシャン名鑑③: 胡德夫/Kimbo

  • 10 September, 2023
  • 按讚加入馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」)粉絲團

<第1セクション【神様がKimboの歌を聞き届けた】>

  • 本日は台湾の「原住民」ミュージシャン名鑑の第3回。「台湾フォークソングの父」と呼ばれる胡徳夫(Kimbo)さんを紹介。Kimboさんは1950年に台東の大武山麓の集落に生まれた。今年で73歳となる。父親がプユマ族、母親がパイワン族という二つの台湾原住民族の血を引く、レジェンドのシンガーソングライター。Kimboさんは、雑誌のインタビューで子どもの頃は人前で歌うことはなかったと言っている。「同年代の原住民の子たちはとっても上手で、自分などはとても敵わないと思っていたから」というのがその理由。11歳の時に故郷を離れて中高一貫教育を行っている長老協会系の淡江中学に進学したことで転機が訪れる。アジアの歌の王様、周傑倫(ジェイ・チョウ)の母校でもあるこの学校は、この学校は音楽教育が盛んなことで知られる。毎日礼拝堂で中国語の歌も英語の歌も讃美歌もフォークソングも歌うのが日課となった。またKimboさんが最も深く影響を受けたのは、女性音楽教師のTaylor先生だった。Kimboさんの才能を見出し、別の3名の原住民の生徒たちとコーラスグループを組織し、聖歌から黒人霊歌、ブルースに至るまで、毎日歌の練習に励んだ。

  • 高校を卒業してからのKimboさんが母語での創作のきっかけとなったのは、当時の駐台湾コロンビア大使館付属のカフェで歌っていた時代だった。その当時はアメリカ軍も駐留していた時代で、バーやパブが勃興し、多くの若者たちも英語の流行歌を口ずさんでいた。原住民族の民謡や台湾のフォークソングを歌う人は限られるほどだった。「我々は自分たちの土地で、狂ったように他人の歌ばかり歌っていた。誰もまだ覚醒していなかった」と述懐している 。1970 年代に台北の中山北路上にあったコロンビア大使館付属カフェは、当時の知識人や文芸関係者が出入りする文芸サロンだった。ある日、台湾キャンパスフォークの先駆者・李雙澤さんから「君はプユマ族なんだから、何かプユマ族の歌を聴かせてくれないか?」と頼まれた。突然こう言われたKimboさんは昔父親から聞いた、うろ覚えの歌を歌い始めたが、結局上手くは歌えなかった。ところが、思いがけずカフェの現場にいた数十名の観客からスタンディングオベーションが起こった。「あの日、神様がKimboの歌を聞き届けた」と詩人の羅門さんはこの瞬間を形容した。 

  • ここでこの歴史的一日にKimboさんが歌ったとされる『美麗的稲穂』(2005年リリースのアルバム『匆匆』より)をOA。

 

<第2セクション【母語の歌謡を携えて社会運動家へ】>

  • その後、Kimboさんは、各地の原住民の古老たちを訪ねては、さまざまな民族の歌を学んだ。母語で歌ったときに観客から受けた熱烈な拍手にKimboさんは震えた。「このことは嵐のように私の脳裏を吹き抜けた。皆が欲していたのは実は自分たちの歌だったんだ」とKimboさんは悟った。天から授かった声、幾重もの年月を経てで伝承されてきた歌が、こうして世に出て行った。台湾原住民の音楽の歌詞には「虚詞」と呼ばれる意味を持たない音で構成されるものが多い。「心の奥底からの感動を言葉では表せない時に、嬉しい時の感嘆や苦しい時の呻きとして発せられた歌は、もともと人に聞かせるものではなく、直接天に聞いてもらうものだ」とKimboさんは解説する。

  • 1973年にKimboさんが開いた『美麗的稲穂』コンサートは、台湾のキャンパスフォーク時代に火を付けた。その後Kimboさんは、『牛背上的小孩(牛の背に乗った子ども)』『大武山美麗的媽媽(大武山の美しいお母さん)』など原住民の生活や人生をテーマにした創作を続けていく。1977年にKimboさんの母語での創作に大きな影響を与えた人物、李雙澤さんが不慮の事故で亡くなってから、李さんの遺作となった『美麗島』をKimboさんが発表すると、当時「党外人士」と呼ばれた人々が創刊した『美麗島雑誌』と同名であったことから、この歌は発禁処分となってしまう。1984年に、Kimboさんは「台湾原住民族権利促進会」を設立して自ら初代会長を務め、「歌声を通して原住民族の声を届ける」ことを理念とする社会運動のリーダーともなった。それから数十年の月日の中で、Kimboさんはさまざまなシチュエーションでこの歌を歌い続けて来た。その度に「この歌で描写したのは美しい台湾という土地であり、政治とは無縁だ」と訴え続けた。

  • ここで李雙澤の遺作でKimboさんが歌った『美麗島』をOA。

 

<第3セクション【国立コンサートホールの舞台に立つ】>

  • Kimboさんは、長らく音楽賞とは無縁だったが、50代も半ばとなった2006年に、『太平洋的風(太平洋の風)』が台湾のグラミー賞「金曲奨(Golden Melody Awards)」で、ようやく最優秀作詞家賞と年間最優秀歌曲賞のダブル受賞を果たした。この曲は、聴覚障がいを持つ青年が台湾を自転車で一周するロードムービーで、大ヒットした映画『練習曲』の主題歌となった。この映画は台湾の『環島(台湾一周)』ブームの火付け役となった。

  • 2014年と2018年にKimboさんは「國家音樂廳(国立コンサートホール)」のステージを踏んでいる。ここは、創設から長らくクラシック音楽の殿堂であった。しかし、「TIFA(台湾国際芸術祭)」の発展と歩みを合わせるように、十数年の間にポップス、ジャズ、民族音楽、ミュージカル等、ジャンルを問わずに門戸を開くようになった。また、TIFAでは、台湾文化の一翼を担う原住民族の芸術紹介にも毎年積極的に取り組んできた。このような文脈で、KimboさんもTIFAに参加する形で国家音楽廰で歌うこととなった。2018年のTIFAのコンサートは私も聴衆の一人として客席にいた。このコンサートのタイトル『詩乃伊(SENAY)』は、「ともに大声で歌う」という意味のパイワン族の言葉だ。このステージでは、ゲストボーカルに雲力思(Inka Mbing)さん、林廣財(Negerenger)さん、桑梅絹(Seredau)さん、ゲストチェリストに陳主恵(Chen Chu-Hui)さんと多彩なミュージシャンを迎えた。また、呉昊恩(Wu Hao-En)さんと鄭李守信(Yabu Mowna)さんがそれぞれギターとパーカッションでほぼフルサポートに入り、しっかりと脇を固めた。この時、特に目を引いたのは、自らもステージの最後のゲストとして弾き語りを披露した呉昊恩さんの存在だ。昊恩は2007年に「昊恩家家」のツーピースユニットで金曲奨の最優秀デュオグループ賞を受賞した経歴を持つ、実力派のシンガーソングライター、そしてギタリストである。

  • Kimboさんのジャズのテイストの利いたピアノやブルージーなボーカルはまだまだ健在ではあったが、その傍らで伴奏のギターで躍動し、弾き語りでは聴衆を釘付けにした昊恩さんの存在感は際立っていた。先年、Kimboさんは長年暮らした台北を離れ、故郷の台東に戻った。以前は台北に暮らし望郷の念を歌うことが多かった。たが、晩年のKimboさんは故郷にあって、反対にに自分の人生の大半を過ごした台北を振り返るようにもなった。このステージは、Kimboさんから昊恩さんへのバトンタッチの儀式のようにも見えた。Kimboさんは最後に金曲奨を受賞した代表曲『太平洋的風』を万感の思いで歌い上げると、アンコールの主役の座は昊恩さんに譲った。昊恩のリードで花蓮のアミ族太巴塱(タファロン)集落の民謡『太巴塱之歌』が始まる。総立ちの観客も、ステージ上の昊恩たちとの掛け合いに呼応し、やがて両者の歌は一つに溶け合っていく。今やトレードマークとなった白髪頭のKImboさんも、満面の笑顔で歌の輪に加わっている。そして、彼の穏やかな眼差しの先には、今日のステージを支えてくれた仲間たちがいた。歌のバトンは確かに次の世代に引き継がれたようだ。この現場に立ち会えた光栄を私は今も鮮明に覚えている。

  • 最後にKimboさんの代表曲『太平洋的風』をお聴きいただきながらお別れ。

Program Host

関連のメッセージ