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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」) - 2025-05-18-「向田邦子追憶の文学散歩」に参加して

  • 18 May, 2025
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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」)

<第1セクション:台湾に散った昭和を駆け抜けた作家・向田邦子さん>

  • リスナーの皆さん、こんばんは。2週間前の今月4日のことだが、國立聯合大学客家學院主催の「追憶向田邦子之文學散步(向田邦子追憶の文学散歩)」と題する苗栗県三義郷への日帰り旅行に参加した。メインイベントは、向田邦子さんの終焉の地となった苗栗県三義郷で、台湾在住40年の日本人作家・木下諄一さんによるツアー名と同名の講演会である。参加者のほとんどは、文学や向田邦子さんご本人に関心のある台湾在住の日本人、もしくは台湾の出版業界、文学研究に携わる方々で、総勢30名を超えた。早朝、台北のMRT行天宮駅前から観光バスに乗り込み、高速道路1号線を南下し、一路苗栗へと向かった。

  • 向田邦子さんと言えば、日本では1970年代に一世を風靡したテレビドラマの『時間ですよ』、『寺内貫太郎一家』や、1979年の最初の放送から昨年45年ぶりにネットドラマでリメイクされた『阿修羅のごとく』の脚本家として思い浮かべる方も多いだろう。1970年代には、山田太一さん、倉本聰さんと並んで「シナリオ・ライター御三家」のお一人にも数えられた。

  • また、エッセイ集『父の詫び状』や、1980年に第63回直木賞を受賞し、『かわうそ』『花の名前』『犬小屋』など13編を収録した短編小説集『思い出トランプ』、同名の人気ドラマを小説化した『あ・うん』などの作品を通じ、家庭や日常の人間模様を温かく、時に切なく描いた作風、鋭い観察眼とユーモアのある文体のエッセイスト、小説家として、今でも根強いファンを持つ作家でもある。

  • 44年前の8月22日午前10時10分、その向田邦子さんも搭乗し、台北から高雄へ向かっていた遠東航空の103便が苗栗県三義郷の上空で空中爆発を起こし、乗客・乗員110名全員が帰らぬ人となってしまった。犠牲者の中には、多くの台湾人に混じって、取材旅行中だった向田さんや観光やビジネスで高雄に向かっていた日本人18名、アメリカ人5名も含まれていた。

  • 空中爆発の原因は、事故後の調査で塩害による機体構造の腐食、33,000回もの発着陸を繰り返した金属疲労による爆発的な減圧が重なったためと結論付けられた。特に、機体の外板に深刻な腐食が進行しており、それが高い高度での内外圧力差に耐えられず、急激な破裂を引き起こしたとされる。こうした状態を見逃した安全点検の不備や整備不良といった人的な原因があったことも指摘されている。また、寒気と暖気がぶつかり乱気流が発生しやすいという苗栗上空の自然的条件も影響したかもしれないとも言われている。いずれにしても、このような形で多くの人命が一瞬で失われてしまったことは、痛恨の極みであった。

  • 向田さんが台湾の航空機事故で亡くなったという知らせは、当時大学受験に失敗し、浪人して東京の予備校に通っていた私も、その日のテレビのニュース番組で知った。その前々年の1979年に、向田さん脚本のNHKのテレビドラマ『阿修羅のごとく』に釘付けとなった私にとっても、非常に衝撃的なニュースだった。今から思えば不謹慎な話だが、その時に最初に思ったのは「えっ?もう向田さんの作品は見れなくなっちゃうの?」ということだった。そして1981年当時の自分にとっては、事故の起きた台湾という異国は、果てしなく遠く感じられたことを今でも覚えている。

  • ではここで、1981年の航空機事故で犠牲となった向田邦子さんをはじめ、110名の方々を追悼しつつ、既にこの世を離れてしまった大切な人のことを歌った私のオリジナル曲で八得力樂團の演奏による『風の中のコスモス』をOA。

<第2セクション:木下諄一さんの講演「向田邦子追憶の文学散歩」>

  • 続いて、今回のツアーのメインイベントだった木下諄一さんのご講演内容について紹介していきたい。木下さんは6つのキーワードを使って、向田文学を見事に解説してくださった。すなわち、「空難(航空機事故)」「經歷(キャリア)」「昭和」「家人(家族)」「作品」「周邊(関連事項)」の6つである。

  • 最初のキーワード「空難」は、向田さんが航空機事故により台湾で亡くなった出来事である。これは先ほどのセクションでも触れたので、ここで多くは語らないが、木下さんはこんなエピソードを披露してくださった。当時台北に留学していた木下さんは、ちょうどこの日、飛行機で高雄に飛ぶ計画を立てていた。ところが二日ほど前に、大学のスタッフの勧めで、南部に初めて行くなら車窓からの風景を楽しんだ方が良いと言われ、急遽計画を変更して鉄道で高雄に向かうこととした。その列車の旅の途中、台中から乗り込んできた他の乗客の話から、台北から高雄に向かっていた飛行機が墜落した事実を知り、その数日後に乗客の中に向田邦子さんもいらっしゃったことを初めて知ったそうだ。

  • 台湾高速鉄道(台湾新幹線)が開通する30年近く昔の1981年の当時は、台北〜高雄間の航空便は日に何本も飛んでいたそうであるから、木下さんが当初の計画どおり飛行機で高雄に向かっていたとしても、必ずしも事故を起こした便に乗り合わせていたとは限らない。だがその一方、その可能性もまったくゼロでは無かったということで、紙一重とはまさにこのこと。

  • 2つ目のキーワードは「經歷(キャリア)」。向田さんは実践女子専門学校の国語科を卒業したのち、財政文化社で社長秘書としてキャリアをスタート。2年後に雄鶏社(おんどりしゃ)という実用書関係の出版社に転職、映画雑誌の編集者となる。この頃からシナリオの執筆を学びはじめ、雄鶏社を退社した後は脚本家、エッセイスト、小説家として活躍することとなったのは、みんさんご存知のとおり。就職や転職が毎回向田さんの人生の転換点となり、その度にステップアップしていったことが見て取れるだろう。

  • 3つ目のキーワードは「昭和」だ。向田さんは昭和に生まれ、昭和に亡くなっている。向田さんの人生も、作品も「昭和」という時代が色濃く反映されている。終戦時16歳だった向田さんの作品には戦前の記述は必ずしも多くはないが、戦後の混乱期を経ての経済成長期、その後の経済安定期を舞台とした作品がほとんどである。

  • 私はこう思う。次のキーワード「家族」とも関係するが、向田さんの作品でよく描かれていた父親像ーー家族の長として君臨し、時には母親や子どもたちに理不尽な振る舞いをする父親ーー現代ではコンプライアンス的に受け入れられるものではないが、それは「昭和」という時代には、日本の多くの家庭で日常的に見られた風景だった。

  • その一方、多くの台湾の家庭でも同じことが起こっていたという。それは、日本統治時代に日本語教育を受け、日本人として育った父親が、家族に対してとっていた態度や振る舞いと重なると、これも今回の参加者の一人が言っていた。向田邦子さんの作品を読み進めていくと、例えば、木下さんが講演会で解説されていたことだが、登場人物が吸っているタバコの銘柄から暗示される社会的ステータスの差異などは、台湾の読者にとっては説明を要する部分であるが、権威主義的な父親像については、台湾人にとってもそのまま理解できるのだという。

  • つまりは「昭和」という向田作品を紐解くキーワードは、作者の向田さんご本人も預かり知らぬところで、実は日本と台湾のあの時代に共通する文化や価値観を繋ぐ、ある種のハブの役割をも果たしていたということが言えるのではないだろうか。少なくとも台湾の読者が向田作品に共鳴する理由の一つに、この「昭和」という時代の存在があったことは間違いない。

  • 4つ目のキーワードは「家人(家族)」。向田さんの作品には家族が多く登場する。先ほど「昭和」のところでも述べたこととも重なるが、権威主義的な父親、それに服従しつつも子どもたちを守り、良妻賢母を演じる母親、時代の波に揉まれながらそれぞれの価値観を持って生き抜いていく子どもたちが描かれている。

  • 5つ目のキーワードの「作品」。木下さんが提唱していた向田さんの作品に見られる理性的な観察力や物事の本質を鋭く処理する「ドライ」な部分、勧善懲悪・義理人情あふれるテーマやほろっとさせる物語の「ウェット」な部分、そしてその間に垣間見える「ユーモア」のセンスあふれる表現が、向田文学の特徴、真骨頂だという考え方には、大いに首肯させられた。

  • 6つ目のキーワードの「周邊」は、その他の関連事項とでも訳したら良いだろうか。例えば、3匹の猫と暮らしていたほどの大の猫好きだったり、料理の本を出すくらい、研究熱心な料理家だったり、作家の向田さんのイメージとは違った一面を垣間見ることもできて、これも興味深かった。

  • さて、この6つのキーワードによって、向田さんの作品に詳しい方にとっても、そうでない方にとっても、木下さんの講演会は十分に楽しめる内容だった。質疑応答で参加者の一人から次のような質問が寄せられた。「向田邦子さんと台湾とは、結局どのような関係があったのでしょうか?向田さんはどういう目的で台湾に来て、台北から高雄に向かっていたのでしょうか?」これに対して木下さんからは「向田さんはもともと旅行好きで世界各地を旅していた。今回も取材旅行の一環だったと思われるが、特に特別な目的や台湾との繋がりがあったわけではないと思う」との回答があった。

  • しかしながら、先ほど述べたように「昭和」というキーワードで、私は向田さんと台湾は実は繋がっていたのだと思う。台北に降り立った彼女は、きっと高度成長前の日本の姿を、懐かしい「昭和」をこの街に見ていたことだろう。そして、奇しくも向田さんの終焉の地がこの台湾となってしまったことで、向田さんと台湾の関係は、切っても切り離せないものとなり、日本と台湾の双方の人々の記憶に深く刻み付けられることとなった。

  • ではここで、蘇打綠(Sodagreen) さんの『無與倫比的美麗(比類なき美しさ)』をOA。この曲は故人の生前の輝きを称えるような美しい表現が見られ、若年層の追悼で選ばれることが多い由。

<第3セクション:四年越しで実現した今回の苗栗への文学の旅>

  • さて、今回の文学ツアーは、苗栗県三義郷の独立書店「苑裡掀冊店」での木下諄一さんによる講演会のほかにも、「遠航紀念亭(遠東航空機事故の犠牲者の追悼記念碑)」での参加者による献花や、苑裡山腳国民小学校の日本統治時代の教員宿舍跡の見学なども予定に組み込まれていた。110名の犠牲者の名前が刻まれた追悼記念碑の前では、参加者が用意された薔薇の花を一本ずつ供え、哀悼を捧げた。苑裡山腳国民小学校の日本統治時代の教員宿舎跡では、台湾では「藺草」と呼ばれ、畳面の原材料となるイグサとこの土地の関係が紹介された。古くは平埔族(平地の原住民族)の道卡斯(タオカス)族がイグサを栽培していた歴史や、苗栗ではイグサの帽子を中心に工芸品作りが盛んであることも紹介された。

  • 実はこのツアーは、もともと4年前の2021年に向田邦子さんが飛行機事故で亡くなってからちょうど40周年を記念して、同じく木下諄一さんを講演者として企画されたものだったが、残念ながらその年は新型コロナ禍の影響で流れてしまった。したがって、今回は4年越しでようやく実現したことになる。主催者の國立聯合大學客家研究學院の馮祥勇院長、ツアーの窓口となって奔走してくださった李詠青さんをはじめ、スタッフの皆さんの粘り強いご努力、行き届いた準備に心から敬意と感謝を表したい。

  • ​本日は、張雨生さんが作詞作曲し歌った『天天想你(毎日あなたを思っている)』をお聴きいただきながらお別れ。1990年代の名バラードで、亡き人への想いを歌詞に重ねる人が多いそうだ。張雨生さんも1990年代に自動車事故で帰らぬ人となってしまった。この曲を改めて向田邦子さんはじめとする航空機事故の犠牲者への、そして若くして世を去った天才音楽家の張雨生さんへの祈りを捧げる曲としたい。

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