<第1セクション:『襟裳岬』>
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本日は「台湾に根を下ろした日本歌謡」の第12回。森進一さんのカバー曲を紹介していきたい。2年ほど前になる。新型コロナウイルスの流行が漸く下火になり、ほぼ2年8か月ぶりに日本に一時帰国したことがある。その際に、日本のテレビの歌謡番組で森進一さんが出演していたのをたまたま目にした。森さんは当時すでに御歳74歳、確か『襟裳岬』を歌っていたと記憶しているが、さすがに以前ほどの圧倒的な声量では無いものの、正確な音程と豊かな表現力は健在だった。森さんが毎日の練習を怠らず、しっかりと喉をケアされているのをその姿から感じ取ることができ、私は深い感銘を受けた。
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それまで私は漠然と自分が元気で歌い続けられるのは、70歳くらいまでかなと勝手に線引きをしていたのだが、森さんの姿を見て大変勇気づけられた。と同時に、自分からいつまでという限界を先に決めてしまうのは、やめようと心に誓った。「馬場さん、もう頼むから歌わないでくれ」と周りから言われるようになったら、それは考えることとしよう。というよりも、今そこにあるステージ、歌える機会の一つ一つを慈しみ、大切に歌っていこうという思いを強くした。大先輩はその姿勢から、力強いメッセージをいただいた。感謝しかない。
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さて、冒頭で森さんが『襟裳岬』を歌ったことに触れたが、『襟裳岬』は1974年1月にリリースされた森進一さんの29枚目のシングル。作詞は岡本おさみさん、作曲は吉田拓郎さんというフォークの王道を行くアーティストの楽曲を森さんが歌うということで、当時世間では大変な驚きをもって話題になったことをまだ小学生だった私も鮮明に覚えている。楽曲が発表される前は、「フォークソングのイメージは森に合わない」とか「こんな字余りのような曲は森に似合わない」とレコード会社や所属事務所の上層部からは否定的な意見が多かったそうだ。しかし、森さん自身が「演歌の枠のみに囚われたくはない」という強い思いから、こうした意見を押し切ったのが功を奏した。
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結果、この楽曲はミリオンセラーを記録し、この年の日本レコード大賞、日本歌謡大賞をダブル受賞するとともに、紅白歌合戦ではこの『襟裳岬』で森さんは初の大トリを飾った。ちなみに、この年の紅白歌合戦の紅組のトリは、島倉千代子さんで、奇しくも同じタイトルで別楽曲の『襟裳岬』だった。この年の紅白歌合戦では、日本レコード大賞の会場から大急ぎで駆け付けた森さんが、ズボンのファスナーを開けたまま登場してしまい、間奏の合間に白組の出演者が森さんを囲んでいる間に締め直すというハプニングがあったことを、子ども心にもはっきりと覚えている。
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ウィキペディアの解説によれば、この森さんの『襟裳岬』は、「フォーク界との連携による本作の成功は、以後の歌謡界に大きな影響を与えた。大衆音楽の主流を自負し、日本的情緒を代表している筈の演歌・歌謡曲が、新しい世代の音楽に接点を求め、それが大衆に受け入れられたということは、既成の歌謡曲と、新しい音楽の流れが、時代の中で相対的な力関係を持ち始めたということでもあった。本作以降、フォーク系シンガーソングライターが歌謡ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった」とあり、日本の歌謡界の一大ルネッサンスと評されている。
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また、この『襟裳岬』を皮切りに、松本隆さん作詞・大瀧詠一さん作曲の『冬のリビエラ』など、森さんはジャンルを超えた楽曲にも挑戦するようになる。一方、それと呼応する形で、井上陽水さん、谷村新司さん、長渕剛さん、細野晴臣さん、BOROさん、松山千春さん、ZARDの坂井泉水さん、小室哲哉さんといったアーティストたちもこぞって森さんに楽曲を提供するようになった。
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そして、台湾でこの曲をカバーしたのは、我らが歌姫・鄧麗君(テレサ・テン)さんだった。北京語版では、かつての愛を追憶し、恋人の帰りを待ち侘びる内容となっている。では、鄧麗君(テレサ・テン)さんが北京語でカバーしたバージョンの『襟裳岬』をOA。
<第2セクション:『おふくろさん(懷念媽媽)』>
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森さんの楽曲で一番古い記憶のものは『おふくろさん』だ。1971年にアルバム『旅路』からシングルカットされたこの曲は、森さんが紅白歌合戦でも8回も歌っているほどの代表曲である。しかし、レコードの売り上げ自体は22万枚ほどで、実は森さんの作品の中では決して多いほうではない。後に多くの物真似芸人さんたちに真似されるほどの森さんのいわゆる「泣き節」が、レコードで静かに聴くよりもステージ上でより映える歌だったのだろうと私は分析している。
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この歌は森さんの代表曲であるにもかかわらず、森さんがしばらく公の場で歌えない時期があった。2007年に作詞家の川内康範さんとの間で、いわゆる「おふくろさん騒動」が発生したからだ。ことの発端はその前年の2006年大晦日の紅白歌合戦で、森さんが前奏の部分でオリジナルに無いパートのセリフを付け足して歌ったことに端を発する。翌年2月に無許可でセリフを付け足されたとして、作詞家の川内さんが猛反発、著作権を侵害されたとして森さんを訴えたのだった。実は森さんは問題発生の30年前の1977年ごろから、前奏の部分にオリジナルに無いセリフを加えて歌っていたのだが、作詞家の川内さんにはこのことは伝えられていなかったようだ。
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この件は、森さんが謝罪をするものの、川内さんが一歩も引かなかったため、結局、両者の間で和解が成立することがないまま、翌2008年、川内さんは亡くなってしまった。その後、川内さんの家族との間で、今後はオリジナルのまま歌うことを条件に、実質的な和解がなされ、森さんは再びこの曲を持ち歌として歌うことができるようになった。2008年の紅白歌合戦では、森さんはオリジナルの歌詞のままでこの曲を披露している。
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この『おふくろさん』を台湾で最初に北京語でカバーしたのは、 李雅芳(リー・ヤーファン)さんで『懷念媽媽(懐かしいお母さん)』というタイトルだった。李雅芳さんは、1948年生まれ、台北市出身。名門の景美女子高校を卒業。1970年にデビューし、 日本でもレコードを出したことのある尤雅(ヨウ・ヤア)さんと容姿が似ていたことから、二人は「姉妹花」と称された。そして、のちにこの二人を主人公とする台湾語のテレビドラマ『姉妹花』も、それに便乗するように放送が開始され、スターの地位を不動のものとした。では、李雅芳(リー・ヤーファン)さんの歌で『おふくろさん』の北京語のカバー曲『懷念媽媽(懐かしいお母さん)』をOA。
<第3セクション:『港町ブルース(苦海女神龍 )』>
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本日最後に紹介する曲は森進一さんの最大のヒット曲で1969年にリリースされた『港町ブルース』だ。単年度でミリオンセラーを記録したこの楽曲は、最終的には230万枚の売り上げを記録したと言われる。この曲は、森さんの当時の事務所が、『港町ブルース』というタイトルを先に決めた上で、全国各地の地名を盛り込んだ歌詞を募集したところ、3万7千通余りの応募があり、その中から7人の詞を部分的に選び、作詞家のなかにし礼さんが補作し、最終的な歌詞が決定したという経緯を持つ、ファン参加型の珍しい作品だった。
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合計6番の歌詞の中に函館、宮古、釜石、気仙沼、三崎、焼津、御前崎、高知、高松、八幡浜、別府、長崎、枕崎、鹿児島という都合14か所の港町が現れ、親しみやすく口ずさみやすいメロディーとともに、全国津々浦々の多くの港町にとっては、それぞれの「おらが港の歌」となったことで、大ヒットに繋がったものと思われる。
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この曲は台湾でも、実に多くのバージョンにカバーされた。テレサ・テンさんだけでも3つのバージョン『誰來愛我(誰が私を愛するのか)』(北京語)『心酸孤單女(シムスンゴォドアルー/心震える孤独な女)』(台湾語)「苦海女神龍(コォハイルーシンリョン/辛い海の女神龍)』(台湾語)の3バージョン、インドネシア語版まで含めると4バージョンがあり、このほかにも美黛(メイダイ)さんが『愛的四季(愛の四季)』、姚蘇蓉(ヤオ・スーロン)さんが『失去的夢(失った夢)』、林秀雲(リン・シウユン)さんが『願你不要離去(行かないで)』 というタイトルでそれぞれカバーしている。
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台湾でも昔から多くの歌手にカバーされ、ずっと愛されてきた『港町ブルース』。私の中で最も印象に残っているのは、楊雅喆(ヤン・ヤーチェ)監督の台湾映画『男朋友。女朋友(GF*BF)』の挿入歌として、歌仔戲(台湾オペラ)の名優・唐美雲(タン・メイユン)さんが、ギター一本の伴奏で切々と歌ったバージョンである。この作品は、1985年の戒厳令の末期から1990年代の民主化が進む台湾社会を背景に、二人の男と一人の女の27年にわたる友情と三角関係の恋愛を描き、第49回台湾金馬奨映画祭で桂綸鎂(グイ・ルンメイ)が主演女優賞を、第14回台北映画祭で張孝全(ジョセフ・チャンが)主演男優賞をそれぞれ受賞した。チケットセールスは5千5百万元(当時のレートで約1億5千万円)のスマッシュヒットだった。
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本日はその映画のサウンドトラックから、唐美雲さんが歌った『港町ブルース』の台湾語版「苦海女神龍(コォハイルーシンリョン/辛い海の女神龍)』をOAしてお別れ。
Rti 台湾国際放送
Rti 台湾国際放送 