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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」) - 2024-06-16-台湾の「原住民」ミュージシャン名鑑④:矢多一生と呼ばれた男〜ウオグ・エ・ヤタウヨガナ〜

  • 16 June, 2024
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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」)
高一生(右二)と妻・高春芳(左三)、子どもたちとの家族写真(写真提供:RTI)

<第1セクション:台湾のライブハウスで日本語の歌の衝撃>

  • 本日は台湾の「原住民」ミュージシャン名鑑の第4回。台湾の日本統治時代には矢多一生(または矢田一生)と呼ばれ、戦後は高一生と名乗った、台湾「原住民」ツォウ族の音楽家、ウオグ・エ・ヤタウヨガナさんについて紹介。今からちょうど15年ほど前に遡る。私が台北に駐在を始めた頃のこと。台北のインディーズ音楽の殿堂である「女巫店(Wiche’s House)」に、「台湾原住民」プユマ族の桑布伊(サンプイ)さんのライブを聴きに行った時だ。今では台湾「金曲奨」の常連で「台湾原住民」を代表する歌手となった桑布伊さんだが、当時は廬皆興(ルー・ジエシン)という漢名を使っていた。プユマ族の伝統音楽の母語によるステージを進めていた桑布伊さんが、自分たち「原住民」の大先輩の高一生さんが作った歌を1曲披露したいと言って、『鹿狩りの歌(打獵歌)』という曲を歌い始めた。こんな歌だった。

  • 「サーサーサ 鹿狩り行さんせ サーサ行さんせ 山山ヘ 峰峰ヘ 鹿狩り 山狩り ホイ ホイ ホイ サーサ山山ヘ 峰峰ヘ 鹿狩り 山狩り ホイ ホイ ホイ」

  • それは思いがけず、日本語の歌だった。それまでプユマ族の言葉で歌っていた桑布伊さんが、なぜ日本語の歌を歌っているのか?この曲を作詞作曲したという高一生さんという人物はそもそも何者なのか?詳しい知識の無かった当時の私は、少々驚きながらも、俄然この高一生さんという人物に興味が湧いてきた。ライブが終わってから、私は桑布伊さんに直接尋ねてみた。桑布伊さんは「高一生は日本統治時代に台湾の阿里山に住んでいたツォウ族の原住民で多くの日本語の歌を残した」ということを教えてくれた。

  • 高一生さんはツォウ族語の本名をウォグ・エ・ヤタウヨガナと言い、日本統治時代は矢多一生(当初は矢多一夫【かずお】)という日本名を名乗っていた。教育者、政治家、思想家、音楽家、詩人と様々な顔を持つ人物で、戦前は警察官や公学校の校長、戦後は呉鳳郷(現在の阿里山郷)の郷長も務めた英才であった。戦後は「台湾原住民族」の自治運動に尽力し、原住民自治区の概念も提案した。しかし、これが仇となり、1950年代の台湾の白色テロの時代に、「山地保安会議」を開催したという罪状で危険思想人物と見做されて当局に捉えられ、現在の台北の監獄に送られ銃殺されてしまった人物である。

  • 日本統治時代には台湾の山地の「原住民族」は「生蕃」「高砂族」などと総称されていたが、各部族毎の言葉がそれぞれ異なっていたため、お互いにコミュニケーションを取る際の共通言語が日本語だった。 したがって、ツォウ族のヤタウヨガナさんの曲が、当時の台湾では国語であった日本語で作られたのは自然な流れであり、また他の「原住民族」にも広く伝播して行ったことも自然な出来事であった。プユマ族の桑布伊さんも集落の長老たちから、この曲『鹿狩り』を覚えたということだった。ここでアミ族のシンガーソングライターで、当時は小美(シャオメイ)という漢人風のニックネームで活動していた以莉・高露(イリー・ガオルー)さんの歌で『鹿狩りの歌(打獵歌)』をOA。

  • 以莉・高露(イリー・ガオルー)さんについては、この番組でも以前紹介したことがあるが、花蓮県鳳林郷出身の「台湾原住民」アミ族のシンガーソングライター。2008年のことだったと記憶しているが、台北のライブハウス「河岸留言」にライブを聴きに行った時は、先ほども紹介した通り、小美(シャオメイ)と名乗っていた。その小美こと以莉・高露(イリー・ガオルー)さんも『フロックスの花(長春花)』という日本語の歌を歌っていた。フロックスは台湾では高山地帯に見られるツツジの仲間。こんな歌だった。

  • 「窓辺に咲いたフロックスの花よ 麗し姿 微風に揺れる ああ麗しフロックスの花よ 君に捧げる山々を越えて」

  • 小美さんはその後、民族名の以莉・高露(イリー・ガオルー)と名乗るようになり、2010年に漢人の陳冠宇さんと結婚をしてからは、宜蘭県の南澳に移り住み、有機栽培で稲作をしながら音楽創作活動を続けるという生活スタイルに入った。翌年の2011年にはファーストアルバム『輕快的生活(軽やかな生活)』で、金曲奨の最優秀原住民語歌手賞、最優秀原住民語アルバム賞、最優秀新人賞の三冠を達成し、トップアーティストの仲間入りを果たした。現在は拠点を台東県の長濱郷に移したが、引き続き「半農半楽」の暮らしを続けている。ここで小美こと、以莉・高露(イリー・ガオルー)さんの歌で『フロックスの花(長春花)』をOA。

<第2セクション【矢多一生から高一生を経て、再びヤタウヨガナへ】>

  • ヤタウヨガナさんは、台南の警察官の世話で台南師範学校に入学し、ツォウ族で初めて高等教育を受けた学生となった。在学中から現代音楽に触れ、ピアノをよく弾いていたというヤタウヨガナさんは、卒業後は阿里山達邦(ダッパン)教育所で教鞭を執りながら巡査も務め、更には麻竹や米などの経済作物の栽培まで指導した。同時に、彼は多くの歌を作曲し、ツォウ族の人々を台湾総督府まで連れて行き、日本語で先ほど紹介した『鹿狩りの歌』を披露した。その後は、呉鳳郷(現阿里山郷)の初代郷長と、達邦駐在所の所長を兼任した。日本統治時代から戦後も一貫して、故郷の人々の教育に関心を持ち、ツォウ族の言語と文化の保存、高等教育の推進、新しい農業知識の促進、医療習慣の改善など、公務の傍らツォウ族の生活改善に尽力した。また、新たな土地の開拓に努め、ツォウの人々の生活空間の拡大も図った。ここでヤタウヨガナさんの一族の方々がツォウ族の言葉で歌った『登玉山歌』をOA。

  • 1947年の二二八事件では、嘉義の民兵と協力して嘉義水上空港を封鎖し、国民党軍を阻止した。その後は故郷の阿里山を守るために兵を退いた。二二八事件終結後、ヤタウヨガナさんはいったんは逮捕されるが、その後釈放され、「政府の命令を実行し、「反共抗俄(ロシア)」事業のために断固として戦う」ことを誓わされる。その後のヤタウヨガナさんの運命は先ほど述べた通りである。処刑される直前の獄中から、日本時代は湯川春子と名乗った、妻の高春芳さんに宛てた最後の手紙を紹介する。台湾の国家人権博物館にこの手紙は大事に保管されている。

  • 「なつかしい春芳 あなたも元気で何よりです。『白銀も 黄金も 玉も 何せんに 勝れる宝 子に如かめやも』此の歌覚えてゐますね。家と土地さへあれば好いです。立派な子供が澤山居るから。品物取られても構ひません。私の無實なことが後で分ります。ミシンを取られる前にあなたの縫った物を着たいのです。白い褲下(ズボンシタ)1枚、(冬物は衛生によくない)、パンツの様にヒモをつけ下はズボンの様に。白い風呂敷(四尺位)一枚。畑でも山でも私の魂が何時でもついてゐます。
    水田賣らない様に。 髙一生」

  • 毅然とした中にも、妻への愛情、妻との信頼関係がほとばしる文章に、私の胸は熱くなる。妻の湯川春子(高春芳)さんのことを謳ったのに違いないと私は確信しているヤタウヨガナさんの代表曲『春の佐保姫』を小美こと以莉・高露(イリー・ガオルー)さん、陳永龍さん、高英傑さんの歌でをOA。高英傑さんは高一生、即ちヤタウヨガナさん、高春芳、即ち湯川春子さんのご子息である。

<第3セクション【矢多一生(ヤタウヨガナ)の音楽を受け継いだ以莉・高露(イリー・ガオルー)】>

  • ヤタウヨガナさんの歌は今なお多くの人々、とりわけ「台湾原住民」のアーティストたちに歌い継がれている。その中でも小美こと、以莉・高露(イリー・ガオルー)さんの存在、活動は特別際立っている。十数年前に台北のライブハウスで以莉・高露(イリー・ガオルー)さんがヤタウヨガナさんの曲を歌ったのを初めて聴いた日のことや、台湾総統府音楽会で、台湾の総統をはじめとする政府要人、各国大使をはじめとする外国政府代表の前で堂々と歌っていた姿が思い出される。ツォウ族とアミ族という民族は違っていても、ヤタウヨガナさんの意志、音楽を最も色濃く受け継いだのは、間違いなく彼女である。

  • 本日はアミ族の民謡の『迎親歌(婚約の歌)』を以莉・高露(イリー・ガオルー)さんの歌でお聴きいただきながらお別れ。この曲も以莉・高露(イリー・ガオルー)さんのライブで最初に聴いたのだが、アミ語で歌われていたサビの終わりに、いきなり「朗らかに皆さんそろって歌いましょう」と日本語が出てきて、びっくりしたことを今も鮮明に覚えている。この曲はヤタウヨガナさんの作った曲ではないが、「台湾原住民」と日本語の歴史的関係、宿命をこの時にも強く感じたものだ。

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