History page of Radio Taiwan International (Rti)
close
Rti台湾国際放送公式アプリをインストール
開く
:::

タイムトリップ(時空の旅) - 2023-10-07_桃園国際空港・台北松山空港

  • 07 October, 2023
タイムトリップ(時空の旅)
現在の台北松山空港(写真:RTI)

本日のタイムトリップでは、台湾の空の玄関口、桃園国際空港と、日本の東京・羽田空港とを結ぶ路線がある台北松山空港について振り返りたいと思います。

台北松山空港と東京・羽田を結ぶ路線は2010年10月31日に就航となりました。日本との路線という点からですと、まだ長い歴史ではないんですね。

一方、桃園国際空港は、台湾最大の国際空港として、長くにわたり日本との路線を支えてきましたので、桃園国際空港の方が台湾に最初に誕生した大きな空港というイメージがあるかもしれませんが、実はその歴史からいうと、台北松山空港の方が長いんです。

まずは台北松山空港について振り返りたいと思います。

台北の空の玄関口、台北松山空港ですが、正面の玄関からタクシーなど車で空港に来られる場合は、時計塔が目印かと思いますが、この時計塔には台北松山機場と書かれています。

しかし建物の一番上、青色のプレートには、台湾華語で「台北国際航空站」と書かれています。

台北松山空港は、軍用民間2つが合わさった空港です。民間の部分が、この台北国際航空站の部分。交通部の民用航空局によって管理されています。軍用部分は空軍松山基地となり、中華民国空軍の管理となり、総統、副総統、政府高官の政府専用機の運行なども行われています。

こうした民間の行き来だけではない台北松山空港。その誕生は日本統治時代の1936年にさかのぼります。1936年にできた、その名も台北飛行場です。当時、羽田飛行場、福岡第一飛行場につづいて3番目の規模だったといわれています。

1936 年 3 月 24 日に台北飛行場が完成。3 月 30 日に開所式が行われ、日本航空輸送株式会社により、沖縄・那覇経由で台北―福岡間の国内初の定期便が週3往復で就航となります。その後台北-バンコク便なども順次開設されていたったそうです。

この台北飛行場、戦後は国民政府により接収され、アメリカの支援により、新たに滑走路が増設され、国内、国際両方を備えた空港へとなり、名称も台北航空站となります。

ここでは、当時、CAT民航空運公司という航空会社が、国民政府とともに、台湾へ渡り、中華民国のフラッグキャリアとして各地への国際便を運航していました。

CATによる航空機、1958年に、翠華号が誕生しますが、ユニークなエピソードがあります。アメリカで作られ完成したこの翠華号が台湾へ降り立つと、前方に描かれた龍の絵がなんだか違うと話題となったそうです。なんと鱗がない龍の絵だったとか。アメリカで書かれた中国風の龍の絵には鱗が書かれていなかったのです。その後、再度修正を依頼し、鱗が書き加えられたそうです。

その後この翠華号、新たにジェット機のスーパー翠華号が誕生します。運航開幕式には蒋介石元総統夫人の宋美齢氏がテープカットを行うなど華々しくデビュー。当時フィリピンのフェルナンド・ロペス副大統領が台湾から日本へ向かう際にこの飛行機で向かったとか。

現在の台北松山空港は、当時、海外からの首脳、代表、政府高官が最初に台湾に降り立つ重要な場所でした。1960年、アメリカのアイゼンハワー大統領、そして1961年にはジョンソン副大統領が降り立った時には空港で盛大な式典が行われました。

その後、海外路線が次第に増加、1970年にはチャイナエアラインがアメリカの路線を就航。

そしてこの台北松山空港、1971年には空港の入口に巨大な噴水が作られます。当時の写真を確認しましたが、噴水というより巨大なプールというような大きさです。なんでも海外旅行、海外に行くということは一大イベント、見送る人とともに、記念撮影を行うスポットとして大変人気だったということです。

日本統治時代の台北飛行場から、国際空港へと変化を遂げていった台北松山空港ですが、1973年に当時行政院長であった、蔣経国・元総統が打ち立てた大規模インフラ整備計画、十大建設、この十大建設の一つの桃園国際空港の計画により、台湾を代表する国際空港の座は奪われることとなります。

--------------------------------------------------------------------------------

松山空港について1970年代頃まで振り返ってきましたが、ここからは1979年に開港した桃園国際空港について少し振り返りたいと思います。

桃園国際空港という名称、台湾と長くお付き合いがある方は、中正国際空港という名前、蒋介石国際空港という言い方、またチャン・カイシェック・エアポートという英語のアナウンスの方がなじみがありますでしょうか。

中正国際空港、この中正は蒋介石元総統の名前、台湾ではこの言い方の方が一般的ですが、桃園国際空港はこの蒋介石元総統の名前がついた空港でした。名称が変更となったのは2006年です。長い歴史からすると、最近といえば、最近ですね。リスナーの皆様はもうすでに桃園国際空港という名前に慣れていらっしゃいますでしょうか。

この桃園国際空港という名称、実は正確にいいますと、2006年に変更となって初めてつけられた名称ではないのです。空港建設の計画が起きた当初、完成間近まではこの名前が使われていたのです。

台湾の公文書をとりあつかう档案局の資料には、1979年に桃園国際機場という名称から、中正国際機場へ名称が変更となったという記録があるんです。

もともと十大建設の空港建設計画では桃園国際空港という名称となっていましたそれが1975年5月に、交通部民用航空局が、民族を救った蒋介石元総統を記念するためという理由で、名称変更を提案するのです。蒋介石元総統がなくなったのは1975年の4月ですので、亡くなって一か月後とまもないころです。こうした声がでたのも、そういった時代背景があるかもしれません。それから1979年まで一時は変更しない、桃園国際空港の名称のままという声もあったそうですが、1978年に名称変更が決定となったといわれています。

もしかしたら、桃園国際空港という名称のままだったかもしれなかったんですね。

桃園国際空港は台湾の空の玄関口であり、台湾最大の国際空港として、世界各国から多くの航空会社のフライトが乗り入れています。現在、第三ターミナルの建設が進んでおり、2026年の完成予定で、現時点ではおよそ半分が完成しているということです。

最後に、台北松山空港について少し戻ります。

当時の中正国際空港が1979年2月26日に開港すると、その前日の25日まで台北松山空港の国際便のあらやるものは全て桃園へ引っ越しとなり、松山空港は一夜にしてガラガラとなってしまったといいます。

ひと気のない空港の第二ターミナルは、一時、展覧施設会場にもなったそうです。また空港内のお店もほとんどがなくなってしまったとか。

しかし80年代後半から90年代になると、経済成長を遂げた台湾は、飛行機で帰省する人も増え、旧正月の時期には国内線チケットの購入が難しいほどにもなったそうです。1997年のピーク時にはのべ1500万人が国内線を利用したといわれています。

今では考えられない数の人々が国内線を利用していたんですね。しかし、そうした光景はずっとは続かず、台湾の高速道路の整備が進んだこと、また2007年には台湾新幹線こと台湾高速鉄道の開通により、国内線の利用者が激減。台北松山空港は二度目の打撃を受けます。

このまま台北松山空港はさみしい空港となってしまうのかと思われていましたが、2009年に中国との定期便が開通。多くの利用客がおとずれるようになりました。そして2010年には東京羽田との路線。2012年には韓国との路線が開通し、再びにぎわいを取り戻しました。

なんといってもそのアクセスの良さですね。首都圏から台湾に来られる際は台北松山空港は非常に便利だと思います。

 

コロナ前の2019年は中国路線を合わせた台北松山空港国際線の旅客数はのべ325万人でした。2021年はのべ27万人ということで、これからさらに増えていくとよいなと思います。

空港はその土地に降りたときの最初の印象。空港での出来事は時が経っても鮮明に覚えていたり、またその土地に来たという気持ちをより強く思い出させるものだと思います。

 

 

 

 

Program Host

関連のメッセージ