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ようこそT-roomへ - 2020-08-19_永遠の13番 柯子彰

  • 19 August, 2020

7月30日、李登輝・元総統が97歳で亡くなったニュースは世界に広く伝えられ、中でも日本では大きく報じられました。1923年、日本統治時代に生まれ、流暢な日本語を話し、自身も「22歳までは日本人だった」と話していた李・元総統、日本においては、台湾の民主化を成し遂げたリーダーの死という扱いにとどまらず、より大きな意味合いをもって受け止められました。

 

翌31日、日本の安倍晋三・首相は「台湾に自由と民主主義、人権と普遍的な価値、同時に日台関係の礎を築かれた」として、追悼の意を示しました。そして、安倍首相の意向もあり、9日には、台湾に好意的な超党派議員連盟「日華議員懇談会」による弔問団が日帰りで台湾を訪れ、蔡英文・総統を表敬訪問したのち、李・元総統の追悼会場となっている台北賓館を訪れました。

 

病を抱えながら弔問団の団長として弔問団を率いた森喜朗・元首相は、弔事を捧げました。民主化を成し遂げ、台湾と日本の親善関係、友好関係を築いたその功績を讃えると共に、友人関係にあり尊敬していた李登輝・総統との別れを惜しむ、心のこもった弔事は、標準中国語にも翻訳され、多くの人々の心を打ちました。そして、同時に、弔事で言及された、一人のラガーマンが注目されました。そのラガーマンとは柯子彰(か・ししょう)選手です。柯子彰は、木偏に、可能、認可のか、子供のこ、そして表彰状のしょう、と書きます。

 

森・元首相は弔事の中で、「私の父は、台湾ラグビーの星で、日本代表主将も務めた、柯子彰選手と同年でありまして、二人は早稲田大学ラグビー部で同じボールを追いかけていたそうです。総理を退任し、2003年に台湾を訪問した際、私は柯子彰選手の墓前で、父との友情への感謝と、二人の日台親善の思いが、父の世代、私の世代、そして更に次の世代へと受け継がれていくことを祈りました。」と述べました。また、「私の父と柯子彰選手が、国籍を超えて、同じラグビーボールを追いかけたように、あなたと私は、お互い政治的立場を超えて、アジアと世界の平和と繁栄という、同じ夢を追いかけました。」として、自身と李登輝・元総統との友情関係を、父、茂喜(しげき)氏と、柯子彰さん手との関係に重ね合わせました。

 

では、柯子彰さんとは、どのような選手だったのでしょうか、本日の「ようこそT-ROOMへ」では、「柯子彰の前に柯子彰なく、柯子彰の後に柯子彰なし」と謳われた台湾出身のラガーマン、柯子彰さんについてご紹介したいと思います。

 

柯子彰さんは日本統治時代の1910年、台北市西部、大橋頭で6人兄弟の長男として生まれました。

 

小学1年の時、父親の仕事の関係で中国大陸の福州に渡りましたが、小学校を卒業すると、敬虔なクリスチャンであったこともあり、京都の旧制同志社中学に入学、ここで柯少年はラグビーと出会ったのでした。そして、ラグビーに魅せられ、練習にあけくれたのでした。

 

もともと体格に恵まれていたことに加え、運動能力の高さ、天性のセンスもあり、短時間で上達、柯選手の活躍もあり、同志社中学は、3年連続で旧制中学大会を制しました。

 

その後、早稲田大学商学部に進学、ラグビー蹴球部に入部すると、ここで森・元首相の父、茂喜(しげき)氏とチームメイトとなりました。旧制中学時代から、今でいうところの「超高校級」と謳われていたこともあり、切り込み隊長を担うセンター・スリークォーターバックとして13番を背負います。大学2年時には、ラグビー全日本のカナダ遠征メンバーに選抜、前評判を覆し、7試合で6勝1引き分けの好成績を残し、日本にラグビーブームを巻き起こしました。

 

さらに成長を遂げた柯選手は、大学4年になると早稲田大学の主将に就任、早稲田ラグビーのお家芸といえる「揺さぶり戦法」を生み出し、当時すでにライバルだった明治大学を2年連続で下し、大学王者に輝きました。

 

1934年には全日本の主将となり、オーストラリアの大学選抜チームと対戦、1勝1敗と健闘しました。23歳での全日本キャプテン就任は未だに最年少記録です。柯選手は4年連続で関東地区の代表選抜に選ばれ、東西大学対抗戦に出場、天才選手と称えられました。 

 

この時代、13番のジャージを着た柯選手がボールをもつと、スタンドのファンは興奮し「か、か、か、か」と柯選手の名前を大声で呼びました。180センチ近い身長、整ったマスク、そして華麗なプレーで、男性のラグビーファンだけでなく、女性ファンも魅了しました。

 

 時代は1930年代前半です。旧制中学の野球では、漢民族、台湾原住民族、そして日本人のメンバーで構成された嘉義農林が初の台湾代表となり、嘉義農林が準優勝したのが1931年です。こうした時代、いかにエリートといえども、植民地生まれの柯選手が、名門早稲田大学の主将だけでなく、全日本のキャプテンを歴代最年少でつとめ、「柯子彰の前に柯子彰なく、柯子彰の後に柯子彰なし」と謳われるスター選手となったわけです。

 

ラグビーが開かれたスポーツであったといえるかもしれませんが、柯選手の実力がどれほど抜きん出ており、かつ人望を集めていたか、そのことがイメージできますよね。

 

大学卒業後、満州鉄道建設の為に、満州、現在の中国大陸東北部へ渡った柯選手は、選手として活躍したほか、各地にラグビーチームを設立、そして、この時期、満州鉄道の同僚だった日本人女性と結婚しました。

 

戦後は台湾へ戻り、鉄道局に勤務しますが、留学経験のある日本統治時代のエリートで、かつ夫人は日本人女性という背景もあり、228事件の際には、厳しい取り調べを受けることとなり、この事は、生涯の心の傷になったと言われています。

 

こうした中、柯子彰さんを支えたのラグビーでした。中華民国ラグビー協会を設立し、台湾でのラグビー普及につとめたほか、アジアラグビー協会の設立にも尽力しました。

 

1975年、日本ラグビー協会が選んだベストフィフティーンで、柯子彰さんは13番、アウトサイドセンターに選ばれました。

 

91歳で亡くなるまで、ラグビーを愛した柯子彰さんは、「ラグビーは相手を尊敬しなければならない。試合中は、相手を敵だと思って立ち向かっていかなければならないが、試合が終われば友人だ。それがラグビーの精神だ」と語っていたそうです。

 

これだけ偉大な選手ながら、柯子彰さんに関する資料はそれほど残っていませんが、youtubeでは、台湾の公共テレビが作成したドキュメンタリー「永遠の13番 柯子彰」をご覧になることができます。日本での取材が多く、大部分が日本語ですので、内容をご理解いただけると思います。森・元総理もインタビューを受けていらっしゃいます。ご興味のある方は是非御覧ください。2020-08-19

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